特集二       人と人とが築く中日友好
二種類の文化の狭間で
                                   劉子亮 清華大学付属中学三年生

帰国前に、同級生たちと。右端が劉子亮さん(劉子亮さん提供)

 1996年2月、僕は祖父母のもとを去り、日本に行き、父母といっしょに暮らし始めた。6歳のときだった。

 空港に出迎えに来た父と汽車に乗った。窓の外は高層ビルが林立し、夕陽に照り映えて、まるでアニメのような世界が広がっていた。乗客は寡黙だったが、しゃべったとしても僕にはまったく分からない。同じような顔つきをしているのに、言葉が通じないなんて、と不思議に思った。

 母に会って僕が最初に言った言葉は「日本はどうして日本の匂いがしないの」だったという。その匂いとは、母がたびたび祖母の家に小包郵便で送ってきたあの紙箱の匂いである。

 紙箱の中には、名も知らぬおいしい菓子や玩具、本などがいっぱい詰まっていた。僕は紙箱を開けるといつも、その中に顔を埋めて、狂ったように匂いをかいだ。あの甘い匂いこそ、「日本」だった。僕の日本認識は、この匂いから始まったのだ。

 その後、両親が京都の大学に通い出したので、僕も京都の上賀茂小学校に入った。「あいうえお」から始まって五年近くこの小学校で学んだ。日本の小説もたくさん読んだ。赤い革靴を履いて登校し、「おかま」とはやしたてられたが、たちまち刺し身や寿司を食べ、週末には友だちと映画を見に行く「日本通」になった。

劉子亮さん(写真・楊振生)

 担任の先生方はみな、僕のことを気にかけてくれた。中川先生は、日本の小学生の歌曲を録音してくれたし、小野先生はクラスの中に「中国語講座」を開設させてくれた。クラスメートたちは中国語に興味を持ち、授業参観の日には、僕の母に手を伸ばして「給我冰激凌!」(アイスクリームちょうだい)と言って母を驚かせた。日本の小学校での五年間は、本当に楽しかった。「本当の日本」が分かった。

 2001年に帰国したが、2年前、中国ではSARSが流行り、北京の学校は休校になった。父母に勧められ、この暇を利用して僕は『明日へ!僕たちの冒険』(坂井信子著)という本を中国語に翻訳した。その本は『了不起的劣等生』(すごい劣等生)という題で湖南文芸出版社から出版された。

 中国の読者からたくさんの手紙が届いた。僕の翻訳で「多くの日本のことがわかった」というのだった。

 しかし、このことが日本のメディアで報道されると、日本のインターネット上に、僕をがっかりさせる「書き込み」がたくさん現われた。「不可能だ」「母親が捏造した大嘘」「版権も払わずに、大もうけ」などというものだった。

 日本の読者はどうして率直に受け入れてくれないのだろう。こうしたつまらない憶測や誹謗をするようでは、中日間に何か誤解が生じた場合、どうやって的確に判断し、理解することができるのだろうか。

 それでも僕は、こう考えるようにした。おそらく僕は、日本の人たちが信じられないほどの「了不起(すごい)」なことをしたのだと。

 そこで去年の夏休み、また1冊の日本の小説を翻訳した。この本が出版されれば、日本の読者の見方が変わることを期待して。



  本社:中国北京西城区車公荘大街3号
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