ニッポン人的「北漂族」
 
                                       フリーランスライター 田中 奈美

   北京には「北漂族」と称される若者たちがいる。「漂」は「飄」と書かれることもある。 彼らは北京に集まってきた高学歴でクリエーティブなフリーターたちである。 ある者は最先端のIT産業で高収入を得る。 ある者はアーティストやミュージシャンである。彼らは束縛を嫌い、自由であり、同時にほんの少し孤独でもある。そうして高速に変わりゆく現代の北京を、ゆらりゆらりと漂いながら、日々過ごしている。

   北京に暮らす日本人にも、こうした北漂族が増えている。彼らは駐在員でも留学生でもない。語学留学後、北京の日系会社に現地採用で就職した人もいれば、そのままなんとなく北京に留まっている人もいる。あるいはフリーランスで日本と中国を往復しながら仕事をしている人もいる。これはそんな日本人的北漂族たちの話である。

Nの話 言葉

北京市内で開かれた「大山子芸術祭」のイベント撮影

   Nは30歳の女性である。フリーランスでテレビ番組のコーディネーターをしている。日本と北京に家があり、そこをときどき往復する。北京には5年ほど前、友達を訪ねて旅行に来たのが最初だった。そのころはまだ空港も暗く、空気は今よりもほこりっぽかった。それが逆に妙に印象に残り、その後、番組制作会社を辞めて北京に留学した。今は中国に関連した日本のエンターテイメント番組にかかわる。「ここにいると、日本ではできないような大きな仕事にも関われる」と語りながら、小柄な彼女は鳴り続ける電話に慌しく出る。

 これまで一番印象に残った仕事は、日中の大物歌手のセッションを行う番組で通訳をやったときのこと。微妙なニュアンスを伝える通訳は番組のカギを握る。セッションは成功に終わり、その後も2人のアーティストとの交流は続いている。今でもイベントがあるときはNが呼ばれ、彼女は2人の「言葉」となる。

Yの話 居場所

   Yは俳優である。北京の事務所に所属している。最近、抗日戦争ドラマで顔を知られるようになった。ドラマの中では憎まれ役の日本軍人だが、普段は照れたようによく笑う。北京へは中国ドラマへの出演がきっかけでやってきた。留学後はこちらのドラマでいくつか続けて日本軍人を演じている。本当は他の役もやりたいのだが、どうしてもそうした役が多くなる。中国雑誌のインタビューで、「あなたの役柄は日本のイメージをより悪くしてしまうのでは」と記者にたずねられたとき、彼はしばらく考え込んでいた。それから役を通じて知り合った中国人との交流を、ぽろりぽろりと話した。彼らはみな温かかった。「どれか一つだけが大事じゃなく、いろんな見方を吸収したいんです」と彼は言った。そして「役者として成長したいのだ」と。

   もう一人のYは20代半ばの男性である。今のところ翻訳で食べているが、先の見通しがあるわけではない。このあいだはうっかりビザの延長を忘れ、高い罰金を払う羽目になった。北京にきたきっかけは、会社をやめる口実として「留学っていいじゃん」と思ったのだと言う。英語圏にしなかったのは、「オレは英語ができちゃうから」。本当はそろそろ別の国に行きたいのだが、先日、履歴書を送った欧米の企業からはさっぱり返事が返ってこない。ビールをぐびぐびとあおりながら、ふと「外国人でいることって楽だよ」とつぶやく。「みんな踏み込んできたりしないからさ」と。そして「今、行き詰っているのかな」とぽろりともらす。

TとOの話  ロックと映画の男

   Tは「ロック」な三十路男である。昔からロックが好きで中国など興味はなかった。しかし青島生まれの母親が中国を見たいと旅行に出たとき、付き添いで一緒にやってきた。8年ほど前のことになる。最初に船で青島についたとき、そこはどこか大阪にも似ていた。中国は遅れた国だという先入観が一気に覆され、同時に先入観を持っていたのが嫌だった。その後、北京に留学し、ラジオ局に勤めたあと、今は中国人の友人の会社に所属している。中国で働きたいというより、ここにいたくて働いている。何年いても中国を全部見たと思えない。そしてまた、ここにいることで日本についてもアイデンティティーについて振り返る。

   O は中国に来て7年目になる。伸びた髭と髪が年齢不詳の30代である。北京で日中合作の映画やドラマの制作に関わる。仕事の数はそう多くないので、収入面ではなかなか厳しい。日本では映画の配給会社にいた。もともと自分が大好きだった会社で、頼み込んで働かせてもらった。そこで知り合った評論家たちが共産党系の人々で、「映画をやるなら北京かキューバかモスクワかワルシャワに行け」と言われたそうである。このうち中国なら学生のときに行ったことがあった。内蒙古でテントを張って星を見ていたと言う。それに中国なら言葉も漢字だし、ちょっと近いかなというのが北京暮らしの始まりだった。留学費用は配給会社が出してくれ、そのままずるずると仕事をするうち6年が過ぎた。撮影現場が大好きで、何にもなくても現場をうろうろする。北京に居続ける理由を問えば、「人が満足する話をできたためしがないんですよ」と、子供のような顔で笑っていた。

Hの話 切り開く感

北京の日本人たちの集い

   最後に紹介するHは豪傑な女である。日本のイベント会社の照明の仕事を、北京を拠点に手がけている。本当は中国に来るつもりなど全くなかった。金を溜めて、タイに行くつもりだった。しかし日本の知り合いの会社から「中国でのイベントを手伝うから、遊びに来ないか」と言われて観光気分でやってきた。ところが訪れた会場で仕事を頼まれ、そのまま地方都市のイベント会場まで連れて行かれた。そうして遊びに来たつもりが、いつのまにかアパートまで借りていた。

   女が珍しい業界で、ずいぶんあからさまな嫌がらせも受けた。仕事に区切りができると、中国など二度と来るかと飛行機に乗った。その機内で見た中国のコンサートの照明はダサかった。しかし自分が中国でやった仕事を振り返ると、これをダサいとは言えないと思った。「やった」と胸を張って言えるものができないかぎりは帰れないと、そのとき思った。

   そうして再び北京に戻り、仕事を再開する。酒もタバコもやる彼女は、業界の男たちと酒を酌み交わすうちにとけ込んでいった。中国語は、実は一度も習ったことがない。はじめは通訳を使っていたのだが、どのみち照明機材の専門用語は通訳でも知らない。現場で一つ一つノートに書いて覚えてゆくうち、なんとなく中国語ができるようになっていた。

   毎回、仕事には不満が残り、「やった」と言えるものがまだ作れない。だから北京に居続ける。この国で仕事をすることにはある種の「切り開く感」があるのだと、タバコの煙を噴き上げながら、彼女は最後にそう言った。




 
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