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王 磊 |
人は生きている限り、病気にかかったり、身体のあちこちに障害が出て、痛みを感じることは避けられない。しかも病気のときは痛みがつきものだが、病気が治った後も痛みはなかなか消えない。そんな時、病院のどの科に行けばよいか、多くの人は迷う。 こうした慢性的な疼痛に悩む病人を助けるため、北京、広州などの都会の病院では、とくに「疼痛外来」を開設している。衛生部に属する北京病院の疼痛外来は、現在、国内のリハビリ医学界がつくった初めての疼痛専門の外来であり、それを創立したのは、日本留学から帰ってきた疼痛学の専門家の趙英さんである。 広く学んで身に付けた 医学の基礎 1979年、「文化大革命」後の初めての大学生として、趙さんは長春のベチューン医科大学医療学部に入学した。趙さんは一生懸命に勉強したが、当時の成績は、とくに優秀というわけではなかった。 彼女にとっては大学は「基礎をつくる」ところであり、専門知識を勉強するだけでなく、もっと重要なのは思想を成熟させる過程であった。大学での数年間に、趙さんは医学のさまざまな分野を広く学んだ。図書館では、医学の最前線の領域の書籍を数え切れないほど読んだ。試験範囲に入っていない「課外」の内容の本も大量に目を通した。 大学を卒業してから彼女は、西洋医学の診断教育研究室の助手、針灸骨傷学部の講師をした。さらにその後、仕事を離れて中医(漢方)医学を学び、その後、実験針灸教育研究室の講師となった。
日本の東北大学医学部は、日本国内では有名な医大であり、とりわけその麻酔科は、麻酔学の研究では当時の日本で1、2を争うほどだった。1990年7月5日、趙さんは東北大学医学部の麻酔科に、客員研究員の身分で自費留学し、博士コースに入って勉強した。 彼女の博士課程の指導教官は橋本保彦教授。彼は非常に熱心な人で、彼女を疼痛の外来に入れて勉強させることにした。当時、日本の医学界の疼痛原理と治療についての研究は、すでに二十数年も行われていて、かなりの理論的蓄積と治療方法を有しており、もっとも有名な治療例は、田中角栄元首相の神経の痛みの治療に成功したことだった。 橋本教授が趙さんを疼痛外来に入れたのは、彼女が中国で学んだ医学を考えたこともあるが、もっと重要なことは、趙さんの針灸のレベルに対してきわめて大きな信頼を寄せていたからである。その時期、日本の医学界では、中国の医者が、中医の伝統的な針灸療法を用いて麻酔をかけて手術する様子を写した教育記録映画が流行っていた。日本の医者たちはこれに強い興味を持っていた。橋本教授と趙さんはすぐに、針灸も一部の頑固な疼痛によく効くかもしれないと考えた。 中国でしっかりした基礎を身に付けていた趙さんは、たちまち腕前を発揮し、小さな針で、多くの顔面神経麻痺や腰痛などの患者の症状を和らげた。日本の同僚たちも、彼女について針灸技術を習い始めた。 趙さんは疼痛学に深い興味を抱くようになり、指導教官の下で疼痛の原理と治療を系統的に学び始めた。時には、仙台市内の佐々木整形外科麻酔科クリニックで、院長の指導の下、実習を積んだ。 彼女が最初に手にした疼痛治療の専門書は、若杉文吉著の『神経阻滞法』で、彼女はこの本をいまでも手離すことができない。神経阻滞法とは、神経を遮断(ブロック)する治療法のことである。 1994年、趙さんは博士号をとった。その後2年間、彼女は疼痛外来に留まり、仕事をした。この間、彼女は神経遮断法を用いて5000以上の治療を行い、多くの患者の痛みを取り除いた。 心温まる触れ合い
趙さんは1990年から1996年まで、日本に留学し、仕事をした。その間、ほとんど毎日、外来で診療したので、日本社会の各階層の人々と付き合い、多くの人と友人となった。日本人との付き合いの中で趙さんは、日本の普通の庶民が、多くの優秀な素質を持っていることにだんだんと気がついた。 趙さんがもっとも感動したのは、日本人の温かい心である。日本についたばかりのころ、数日後には小学校が一斉に始まるのに、一年生に入学する予定の我が子が行く学校がまだ見つかっていなかった。 どうしたら良いか途方に暮れていると、彼女の住んでいた団地にある「国見小学校」が、とくに一人の職員を彼女の家に派遣して来た。そして、「あなたのお子さんの入学問題はすでに解決しました」と彼女に告げ、学校に行く子どものために準備すべきものをあれこれと教えてくれた。 学校が始まってからの数日間、趙さんと夫は、道がよく分からないため、学校の場所が探し当てられないことが何回もあった。そのたびに子どもは放課後、学校の校門で、迎えが来るのを待っていなければならなかった。そんなとき、学校の先生は、趙さんが警察に教えられて学校にたどり着くまで、子供に付き添って待っていてくれた。 日本庶民の社会に対する責任感に、趙さんはもっとも感服している。 ある日、外来の仕事が始まったばかりのとき、麻酔科の一人の同僚が出勤してきた。だが、前の日の晩、趙さんが所属する麻酔科の人々がこの同僚のために送別会を開いたばかりで、彼は家族とともに、アメリカに移住するため、いまごろは飛行機に乗っていなければならないはずだった。どうしてまた出勤してきたのだろうと趙さんは思った。 もともとこの医師は、自発的に臓器を提供する同意書に署名していた。飛行機に乗る数時間前、突然、腎臓移植が必要な患者がおり、この医師の腎臓がもっとも適合しているという通知を受け取ったのだ。そこでこの医師は、家族を飛行機に乗せて見送り、自分は残って手術を待つことにしたのだった。
趙さんが下宿していた家の大家さんの今野さんは、かつて戦争で中国へ行き、浙江省金華で負傷した人だった。今野さんは何も言わなかったが、寂しそうな表情や、趙さんを娘のように可愛がってくれたことから、この老人が戦争の歴史に対して「後悔の念」を抱いていると、趙さんは感じとった。 今野さんは自分の不動産があり、会社を経営しているが、奥さんと2人の生活は非常に質素だった。趙さんは今野さんの家で数年間過したが、今野さんはその部屋代を決して受け取ろうとはしなかった。「家の中では、私たちは自由に過しました。まるで自分の家にいるようでした」と趙さんは言っている。 中国で疼痛医学を広める 1996年、日本での学業を終えた趙さんは、中国に帰ってきた。北京大学基礎医学院のポストドクターに登録するかたわら、中国科学院の韓済生アカデミー会員の学生となった。韓済生会員はかつて周恩来総理の委嘱を受け、針灸を用いて痛みを抑える原理を専門的に研究し、彼の多くの理論は、中国疼痛医学の発展の基礎を定めた。彼の指導のもとで趙さんは、慢性の疼痛治療を、今後の臨床研究の方向とすることを選んだ。 現在、生活水準が高まるに連れ、暮らしの質の向上を求める人々の要求も、日増しに高まっている。こうした背景の下で、中国医学界は疼痛医学に対する研究を始め、疼痛外来を開設した病院も少なくない。 中国の疼痛医学が直面する課題は何か。 現在、中国の慢性疼痛の発症率は、年ごとに上昇する傾向がある。60歳以上の人では、発症率は65%〜80%に達し、普通の人でも、35%に達している。長期間、疼痛に悩まされているので、多くの人は生活の質が明らかに低下している。患者は巨額の治療費を支出しなければならないばかりではなく、それに堪えきれない人さえ少なくない。 実は、疼痛外来の治療を受ければ、90%の慢性疼痛は緩和することができるのだ。しかし、現在中国で、疼痛医学研究と治療に従事する機構はまだ少なく、また疼痛医学に対する研究は、各科の下に分散している。現在の当面する急務は、疼痛医学を、「外科、内科、小児科、婦人科」と同等の科としての地位を認め、統一的で規範的な学科体系を形成し、この新興の科の発展のため、外的な基礎をしっかりと固めることだ、と趙さんは言う。 彼女の「慢性疼痛治療神経遮断技術の推進と応用」は、すでに衛生部の「10年間に百項目の成果を推進し広める計画」に組み入れられることが承認された。
2002年9月、趙さんは、招きに応じて再び日本の東北大学医学部へ行き、学術交流を行った。わずか数日間に、趙さんは、40年近い歴史をもつ日本の疼痛外来が、治療の対象や治療方法において、次第に根本的な変化を起しつつあると感じた。「このような変化は、近い将来、主に、中国の疼痛科やリハビリ科に対し、巨大な衝撃を与えるにちがいない」と彼女は思った。 このような衝撃に直面し、趙さんは興奮を禁じえないが、少し失望も感じている。こうした新しい治療法が中国の疼痛医学の発展を大いに高めるのは嬉しいことだが、中国の疼痛医学研究がいつになったら世界的に進んだ地位を占めることができるのかと考えると、失望を感じてしまうのだ。 しかし、趙さんが自分の仕事に情熱を持っていることに変わりはない。2004年5月には、北京病院に疼痛診療センターが設立され、趙さんが主任に就任した。疼痛医学の重要性について趙さんはこう言っている。 「疼痛問題は現在、全国的な大きな健康問題であり、国民の健康水準や国民の身体的素質に関わる公共の衛生問題である。根本的に言えば、疼痛に対する認識と治療は、一つの国の文明や人民の生活のレベルをはかる尺度である」 |
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