初冬の旧暦10月1日(今年は11月2日)は、「寒衣節」である。この日には、先祖を祭り、故人となった肉親のために紙製の「寒衣」(冬着)を送る。思いやりと孝行の情にあふれた、伝統的な祭日である。
円を描いて紙銭を燃やす
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貴州省のミャオ族・トン族の村で行われる民間の闘牛大会(写真・丘桓興) |
中国の東北地方には、寒さが早くやってくる。旧暦の10月初めともなると、吉林省の人々は早くも綿入れの衣服を着だすが、それによって「寒くてさみしい季節は、どんなにつらいことでしょう」と、亡くなった故人を思い出すのだ。
寒衣節のこの日は、どの家でも先祖を祭り、冬着を送る。つまり、十字路の入り口の地面に円を書き、その円のなかで、先祖の名をしるした紙銭や紙でつくった衣服、帽子や靴を燃やすのである。専門店から「紙活」という紙でかたどったものを買ってきて、俗に「ふろしき」と呼ばれる紙袋に入れ、先祖の名前を書いてから、円のなかで燃やす人もいる。こうした習俗は、故人に冬着を送ることを表している。
また、純朴で心やさしい人たちは、「肉親以外の魂は、冬着を送る子孫がいないとかわいそうだ」と考えている。そのため往々にして、円の外にも紙銭や紙活をまきちらし、さみしい魂をなぐさめている。
山東省は、孔子や孟子のふるさとだ。昔から「終わりを慎み、遠きを追う」(先祖や両親の葬祭忌服などを丁重に行う)という伝統があり、とりわけ寒衣節を重視している。10月1日のこの日、各地方の人々は、さまざまな供え物や線香、色紙でつくった衣服や帽子などを持参して、先祖の墓参りをする。墓に土をもって先祖を祭るのであるが、それがいわゆる「冬着を送る」ならわしとなっている。
山東省では、地方によってもその風習が異なっている。行うときと方法に違いがあるのだ。青島に近い即墨は、昔の「斉国」の領土であった。そこでの寒衣節は、2日にかけて行われている。祭りの前日に、1族の長(族長)が1族を連れて墓参りをする。墓に土をもるさいに、衣服のすそに土を包んで持ち運ぶ。多く包めば包むほど、子孫が栄えると言われている。
寒衣節の当日は、族長が1族を連れて、改めて墓参りをする。線香をたき、紙を焼いたり、酒を供えたりした後で、ひざまずいて最敬礼する。供え物は家々の経済状況によっても異なっており、わずか2碗のギョーザを供える人もいれば、30碗の供え物を墓前にズラリと並べる人もいる。先祖を祭るときに、族長は先祖の名前や生い立ち、功績などを述べて、後代となる1族を励ましている。
ウン城は、昔の「魯国」の領土であった。また、中国の長編小説『水滸伝』の英雄である宋江、武松らが活躍したところでもある。ここでは、宗族ごとの寒衣節が盛大に行われている。族長は1族を連れて、はじめに先祖の墓を祭る。次に祠堂を祭り、最後に盛大な宴席をもうけて酒を飲み、3日つづけて芝居を演ずる。こうして祭りによって、1族の団結と友愛を促進するのだ。
孟姜女の物語が由来に
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古書の挿絵『孟姜女哭長城』(孟姜女が長城に泣く) |
民間伝説においては、寒衣節は「孟姜女が冬着を送る」物語に由来するという。
今から2000年あまり前、秦の始皇帝は長城を建築するために、各地から男子を徴集せよと命じた。范杞良という青年が、夫役から逃れるために孟超の家の庭園にある木の上に隠れていたが、孟姜女に見つかった。孟姜女とその両親は、范杞良に好感をもっていたので、若い2人は縁を結んだ。しかし、結婚した翌日、范杞良は長城の建設にかりだされた。孟姜女は、夫の帰りを待ち望んだが、なしのつぶてであった。
3年目の10月1日、孟姜女は夫にわたす冬着を持って出発した。さまざまな困難を乗りこえて、ついに長城の建築現場に到着した。聞けば、范杞良は役人に殴られてすでに亡くなり、そのなきがらは長城の壁に埋められたという。孟姜女は悲しみのあまり、激しく泣き叫んだ。すると、急に大きな音が響きわたり、長城がくずれて、白骨化した夫のなきがらが現れた――。こうして愛情にひたむきで、夫に冬着を送るため千里の道を探しまわり、暴政に立ち向かい、長城を泣いてくずした1人の女性、孟姜女を記念するために、民間では10月1日を寒衣節としているのである。
実際に、冬着を送るというならわしは、民間人に世々代々受けつがれてきた生活習慣である。古代の中国社会には、町にも村にも、今のように衣服をつくる工場などはなかった。10月初め、北方には冬が訪れ、厳しい寒さとなっていく。女たちは家族のために針仕事をして、綿入れの上着やズボンなどの防寒服をつくっていた。さらには、家を離れて仕事をする肉親の暮らしを気遣い、10月初めに人に頼んで衣服を運んでもらったり、郵送したりしたのであった。家を離れて、力仕事や商いや辺境警備にあたった男たちは、冬に入ると家族から送られた、ふわふわとした冬着を着こんだ。まさに「冬着を着ると、心が温かくなる」思いで、ふるさとや家族のことを、しみじみと懐かしむのであった。
先祖に冬着を送るのは、古代思想の「霊魂信仰」でもあり、「先祖崇拝」でもあろう。これは「事死如事生」(故人を生きているように扱う)という孔子の思想で、思いやりと孝行の情を重んじる中国人の伝統的な礼儀や道徳観を表している。研究によれば、古代に殉死者と実物の副葬品(物)が納められたように、最初に先祖に送られた冬着もおそらく実物だったと考えられている。
その後、社会の進歩と埋葬制度の改革につれて、副葬物が生きた人や馬から、陶俑、木俑、陶馬に代わった。また、後漢(25〜220年)には蔡倫が製紙技術を発明し、唐代(618〜907年)には製紙業がさらに発展して、紙が普及していった。先祖の魂に送る冬着も、紙製の衣服に代わっていった。
現在、多くの地方では、人々の物質生活が向上したのに伴って、紙製の衣服や靴、帽子、布団などを先祖に送るだけでなく、紙製のテレビ、自動車、洋風マンションや、ドル、ユーロなどを模した紙銭を専門店から買ってきて送るのだという。先祖たちにも、現代的な生活や海外旅行を楽しんでもらいたいからだそうだ。
2000年あまり前の新年
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民間年画『十月寒冬賞梅図』 |
中国には、多くの伝統的な祭日がある。たとえば、旧暦1月1日の春節、1月15日の元宵節、2月2日の春竜節、3月3日の上己節、4月8日の浴仏節、5月5日の端午節、6月6日の天・節、7月7日の七夕節、8月15日の中秋節、9月9日の重陽節、10月1日の寒衣節などである。しかしこのうち、春節と寒衣節だけが「1日」である。それはなぜか?
1月1日の春節は、前漢(前206〜紀元25年)から現在まで、2000年あまりつづく旧暦の新年である。また、10月1日の寒衣節は、さらに古い秦代(前221〜前206年)の新年であった。研究によれば、秦国が10月1日を1年の始めにしたのは、彼らが興した西北地区がチャンロン(羌戎)部族に属していたことと関係がある。つまり、古代のチャンロン人が、10月1日を新年としていたのである。
しかし、秦の歴史も、暦法を使った間も短かったので、10月1日の新年は歴史から消えていった。国の政令で暦法は改められたが、一部の地方では、民間にその習慣が残されていった。たとえば、現代の人々は、10月1日の寒衣節に祠堂へ行って先祖を祭り、先祖の墓に紙銭と冬着を送っている。それは、古くから今に伝わる、新年を迎えるもっとも重要な習俗の1つである。
今でも西南地区の一部の少数民族のなかには、こうした習俗がほぼ完全に残されている。四川省では、チャン族が10月1日に「チャン年」(チャン族の新年)を祝う。雲南省、四川省、貴州省などに住むイ族も、10月1日(または10月上旬)に「イ年」(イ族の新年)を祝うなど。
また、チャンロン人の末裔である雲南省のハニ族も、10月1日を1年の始まりとしている。5日間から13日間にいたる「10月年」には、どの家でもブタや牛をつぶして、酒を醸造し、「ババ」(もち米をついて作った食物)や「湯円」(あん入りのだんご)をつくる。一家団らんしたり、酒盛りしたりするだけでなく、夜になると村の外でかがり火をたき、歌ったり、踊ったりする。また、この間、ハニ族の人々は天地と先祖を祭り、年長者に新年のあいさつをして、新年を祝い豊作を祈る。こうしたハニ族の新年の情景は、2000年あまり前のチャンロン人と秦代の人が、新年を祝った習俗を思い起こさせるものだ。
「跳禾楼」と「牛王節」
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10月1日は、道教の水官の生誕日でもある。図は、水官神像 |
中国は広大で、南北の気候の差が大きい。そのため、祭日や風俗習慣も異なるところがある。北方の人が墓参りをして、先祖に冬着を送るとき、南方の広東省ではまだ暖かいので、衣替えの季節にはなっていない。そのため、先祖に冬着を送るという意識も習慣もない。このとき、晩稲を刈り入れたばかりの農民たちは疲れているので、娯楽や休みが必要になる。そこで、多くの村落には「祭田祖」と「跳禾楼」というならわしがある。
広東省西南部の化州では、10月に刈り入れ祭の「禾了節」を行うときに、村の広場か、または土地廟(土地神を祭ったほこら)に「禾楼」という塔を建て、田の神様である「田祖」と「禾穀夫人」の絵を供える。その後、家々で供え物を用意して、豊作か凶作かという1年の成果を田の神様に報告し、来年の豊作を祈りながら厳かにそれを供養する。供養がすめば、家ごとに集まって宴会を開く。
夜になると、村をあげて跳禾楼を行う。若い男女が次から次へと禾楼にのぼり、ドラや太鼓を打ち鳴らす。「対歌」(歌垣)をしたり、踊ったりして、心ゆくまで楽しんでから帰途につくのだ。
民俗学者によれば「こうした民間行事の跳禾楼は、古代にあった土地や穀物の神様への崇拝から生まれたようだ」ということだ。それは、秦代に新年を祝ったさいの「祭祖」(先祖を祭る)、「酬神」(神様に感謝する)、「卜歳」(新年を占う)という遺風を思い起こさせる。
農家が穀物の神様を祭るときには、役牛の功績も忘れない。広東省、四川省、貴州省などでは、10月1日に、役牛のために「牛王節」を行う。たとえば、貴州省盤県では10月1日に、村ごとに爆竹を鳴らし、祭りのムードを盛りあげる。そして、どの家でも牛を洗い、きれいに飾りたてて、1日じゅう休ませる。さらに、収穫したばかりのもち米で作ったババを野菜の葉で包み、牛に食べさせてから、2つのババを牛の角に掛ける。最後に、牛を河辺まで引き、河の水を飲ませながら、水面に映る角の上のババを見せる。ババを見た牛はうれしくなって、翌年はいっそう真面目に田を耕してくれる、と考えられている。
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