起業する帰国留学生たち
 
 
                                          張春侠 高原=文  楊振生=写真

中関村は北京市の西北部にあり、ハイテク産業の基地として有名である。 「中国のシリコンバレー」とも呼ばれる。

ここに、米国や日本、欧州などから帰ってきた多くの留学生たちが、ハイテク企業を創業して活躍している。
国留学生を「ハイグイ」と言う。

「海帰」――海外に留学した中国の若者たちが、祖国に帰って企業を興す。
「海亀」――浜辺に産みつけられた海亀の卵が孵り、大海で大きく育ち、再び浜辺に帰ってきて卵を産み、その卵が孵化する。
「ハイグイ」という言葉にこの2つの意味が込められている。

政府は、彼らの起業を支援する「科技園区」を作った。
その下に、「創業園」や「孵化器」の役目を果たす「孵化園」が設立された。

ここからどんな「亀」(企業)が生まれているのか。
帰国留学生のために作られた「中関村国際孵化園」を訪ねて、その中をのぞいて見た。

 
特集1
ゼロから出発したエリートの群像

  海外で学位を取り、帰国して中関村の「国際孵化園」で創業し、成功を収めた「海帰」(海亀)たちは、どのような若者たちなのか。まず彼らの横顔を紹介しよう。

創業は外国より国内が容易
                                                      「北京思智科技有限公司」の劉昊原さん

現場で指導する劉昊原さん(中央)

   2001年10月、当時27歳だった劉昊原さんは米国から帰国した。そして「北京思智科技有限公司」を創業し、主にインターネット・セキュリティーの製品の研究開発を行った。

   彼はきわめてストレートな人間だという印象を、人に与える。童顔で、とくによく笑う。自分でも率直に「指導者としての魅力に欠けている」と認めており、仏頂面をすることがない。人と話すときにはすぐ笑顔になり、まったく恐ろしいところがない。

   劉さんが帰国して創業しようと思い立った理由は、非常に単純だ。米国にいたころ、彼は偶然、中関村のシリコンバレー連絡所の前を通りかかった。そこで働いていた職員は非常に熱心に、帰国して創業するときの優遇政策を彼に紹介した。それは筋が通っていたので、彼はだんだんと心を動かされた。

   彼は密かに計算してみた。いま手元には100万元(約12万ドル)ある。シリコンバレーで1人の開発研究者を雇うと、年俸は少なくとも8万ドルかかる。少なくとも3人は雇う必要があり、その他の出費を加えると、年間50万ドルは必要だ。しかし、もし中国で5人を雇えば、それに各種の出費を加えても年間に50万元あればよい。残りの50万元は運転資金に使える。

   計算してみてはっきりわかった。彼は中国国内で創業する方が、海外で創業するより成功しやすいと思った。そこですぐに帰国して創業しようと決めたのだった。

   ここから、国内での劉さんの創業の人生が始まった。寝袋1つ、即席ラーメン1箱で、事務所を家にして、夜に日を継いで研究開発にいそしんだ。

   2004年、ついに彼の会社は、自分で研究開発したインターネット・セキュリティー製品「U―LOCK」を正式に売り出した。この製品は、中国語名を「優鎖」といい、コンピューターの情報洩れを防ぐのに使われる。米国の有名なベンチャー企業の「IDG」が投資し、現在、ナスダックに上場しようとしている。

焦眉の急を救った 肩代わり融資
                                                     「奥尼凱勝信息技術有限公司」の陶然さん

米国から帰って創業した陶然さん

   米国から帰ってきた陶然さんの創業の歴史は、まるで小説のように曲折に富んでいる。その中でのキーワードは「資金不足」である。この話になると、陶然さんはいつも特別な気持ちになり、多少、憂鬱にもなる。

   2005年の初め、陶さんは再び、金融面での危機に遭遇した。当時、彼の会社はさまざまな曲折を経て、やっと電器メーカーの「海爾」(ハイアール)から製品の発注を受け、契約にサインした。契約では、まず陶さんが工場を探して見本の機械を製作し、それを「海爾」でテストし、合格すれば代金を払い、その後、量産を始めることになっていた。

   最初は順調だったが、見本が完成した後、工場が引き渡しを拒否した。その原因は、陶さんの会社が工場に、10万元の製作費の支払いができなかったためである。もしこの10万元がなければ、すべての注文は水の泡となる。

   銀行にローンを申請することはできないか。だが、陶さんの会社は、株主はほとんど彼1人で、しかも彼はいま、何も財産がない。車さえない状態だ。いったいどうしたらよいのか。

   陶さんは米国で、コンピューターを専攻した。彼自身の言葉を借りれば、自分は技術畑の出身で、国内のマーケットの状況が分かっていない。帰国前、彼は、中国のマーケットも米国と大差ないだろうと思っていた。技術が一定程度に達すれば、他の人に渡して、その技術を商品化することができ、投資者を探すことができる、と考えていたのだった。

   だから彼は、全財産をつぎ込んで、200万元をかき集め、中関村で「奥尼凱勝信息技術有限公司」を創業し、画像の圧縮技術の研究開発を始めた。しかし、国内の投資家がハイテクと中小企業に対する投資にきわめて慎重であるとは思いもよらなかった。このため彼はいつも資金不足に見舞われた。

   創業時の200万元は、一見、小さい額ではないように見えるが、技術開発の過程には長い時間がかかるので、実は小さく、取るに足らない額なのだ。融資を受けた経験がほとんどない帰国留学生にとっては、融資の問題は確かに大きな難題なのだ。

   2003年、陶さんは、中関村科技園区管理委員会の支援で、「緑の道」と呼ばれる少額担保ローンで、50万元を借りた。この「緑の道」というのは、中関村科技園区管理委員会が帰国留学生の興した企業のために特別に設立した借款システムで、管理委員会の名義でローンを保証し、利息は管理委員会が引き受け、企業はなんら利息を負担する必要はない。ただ1年後に借金を返済すればよい。

中関村国際孵化園

   しかし、2005年に陶さんが工場から10万元を求められた時は、他の企業も「緑の道」のローンを申請し、競争が激しかった。陶さんにとって、新たな借金の道を探すことは焦眉の急だった。

   ちょうどこのとき、「国際孵化園」は「みんなで助け合おう」という融資の方策を打ち出した。これは「孵化園」と管理委員会、担保会社、銀行が一堂に会して、企業のローンの問題を解決するやり方である。

   この方策に基づいて、「孵化園」が300万元を銀行に入れて担保金とし、そのうえで担保会社と協議して契約し、「孵化園」と担保会社がいっしょに代理補償の危険を分担した。しかも「孵化園」の重点推薦企業に対しては、「孵化園」の代理補償の分担比率が担保会社よりずっと高くなっている。こうすれば、企業が担保ローンを獲得できる確率は、大いに高まる。

   間もなく陶さんは、この「みんなで助け合おう」の融資制度を通じて、30万元のローンを獲得した。彼に続いて6社の帰国留学生の企業がこの制度で融資を受けた。

   今、陶さんの会社の見本の機械はすでに「海爾」に引き渡され、テストが行われている。支払いは問題がなく、会社の運営は非常にうまくいっている。

産学協同は双方に利益
                                                     赫立訊(北京)科技有限公司のリ亮さん

カナダで博士号を取り、帰国して創業したリ亮さん

   2002年4月、カナダに留学し、博士号を取ったリ亮さんが中国に帰ってきた。そして中関村の「国際孵化園」に、「赫立訊(北京)科技有限公司」を創業した。これは、主に近距離の無線電信システムの研究と開発を行う会社である。

   創業直後、「リ総経理はいますか」という電話がよくかかってきた。あるとき、リさん自身がこの電話を受けた。彼はしばらく頭が混乱し、「リ総経理って誰だ? そんな人はいないよ」と言ってしまった。会社の職員たちに指摘されて、リさんは、それが自分自身のことだとやっと気づいた。

   リさんが人に与える印象は、確かに商人らしくなく、まるで学者のようだ。いつも、何事にも無頓着で、取材されるときは「何でも聞いてくれ。聞かれたことには必ず答えるから」という。

   リさんの会社の中は、いたるところにモジュールやICチップ、電子機器などが置かれていて、まるで大学の実験室のようだ。リさん自身、一日中、助手を率いて研究開発や、実験、テストを繰り返しているので、皆は彼を「リ亮博士」と呼んでいる。だから「リ総経理」と呼ばれても、ピンとこなかったのだ。

   リさんが会社を中関村に置いたのは、そこが自分のよく知っている場所だからである。国を出て留学する前、リさんは中関村地区にある北京理工大学で勉強していた。自分でハイテク企業を興したからには、中関村にはよく知っている先生や同級生がおり、実験室があるからだった。

   この選択は確かに賢明だった。「大学との協力は、会社に大きな助けとなった」と彼は言う。会社の現在の主要な業務は、ICチップの研究開発であり、多くの理論研究が必要である。しかし一般の技術者には、それをする気力がない。もし大学の研究室と協力するなら、国が大学の実験室に与えた投資や大学の実験室の優れた設備などがみな、利用可能な資源に変わる。

   さらに、大学生たちは勉強がよくできるので、能率が高く、情熱もある。彼らを採用すれば、企業の人材面でのコストを大いに引き下げることができる。また、大学にとっては、国際的に最先端を行く科学研究プロジェクトに参加する機会を利用して、自分の目で、自分の研究成果から生まれた製品を見ることができる。だから大学側も、企業との協力を望んでいる。リさんに言わせれば、こうした協力は「ウィン・ウィン」だという。

   2005年の初め、リさんの会社は北京航空航天大学の「信息(情報)工程学院」といっしょに、米電気電子学会(IEEE)の近距離無線通信面での国際的スタンダードを獲得した。これは、中国の技師が初めてスタンダードのドラフトを書いたものである。これ以前に、リさんの会社と北京航空航天大学は、すでに3、4年の協力を行ってきており、学生たちはリさんの会社のオフィスで実習や仕事をしてきている。

企業も社会に貢献しなければ
                                                     北京東盛和科貿有限公司の王懐東さん

日本で博士号を取って創業した王懐東さん(中央)は、福田官房長官(当時)(右)を国際孵化園に案内した(中関村科技園区管理委員会提供)

  日本に留学して医学博士号を取った王懐東さんは、中関村科技園区では「ボランティアの投資勧誘大使」という名誉な名前を付けられている。彼自身が創業した企業が、次第にうまく走り出した後、彼は絶えずさまざまな社会活動に参加し、中国と日本の企業間交流や協力のために橋渡しをしてきた。

   最近3年間で、王さんは何回も日本の企業代表団を中関村や天津の開発区などに連れてきて、現地を参観させ、投資環境を視察させた。また何度も、中国の企業代表団に随行して日本に行き、日本の先進的な経験を学び、少なからぬ協力プロジェクトの合意に助力をした。

   例えば天津・東麗区と日本のある会社との環境保護型の農業堆肥の協力協定や山東・棗荘市政府と日本の会社との「植物活性酵素」による農業生物プロジェクトの協力の意向表明などを手がけた。

   王さんは1999年、日本の九州大学で医学博士の学位を取ったが、日本で仕事するチャンスを捨てた。また北京大学医学部からの招請をも断わって、個人で創業する道に進んだ。彼は「日本でも良い仕事に就くチャンスがあったが、その大多数は、他人のために働く仕事だった。また、大学に帰って科学研究をするのも、自分1人で事業を成功させたいという願いを満足させることができない。だから最終的に創業の道を選んだ。その選択が冒険心に富んだ自分の個性にもっともかなっていたからだ」と言っている。

   帰国後、彼は厨房のゴミ処理を最初のプロジェクトにした。しかし、さまざまな困難にぶつかるとは思ってもみなかった。まず、日本の特許会社が、すべての技術を提供することに同意しなかった。その次には、国内で創業することについて事情に暗かったため、会社の登記に大いに手間取り、1カ月もかかってしまった。しかも、会社の規模が小さすぎ、一時は保証人もいなかったので、銀行は彼の申し込んだ借金を拒絶した。

   しかし、彼自身も努力し、「孵化園」も協力してくれたお陰で、彼は最終的に特許の使用権を獲得し、中関村科技園区管理委員会から創業資金を得た。こうした自分の経験から、王さんは他の企業が順調に創業し、回り道をしないで済むように、自分自身が行動してそれを助けたいと考えた。

   「私たちの世代は、子どものころに中国の伝統的な教育を受けたので、社会的責任感が強い。自分の事業が成功し始めたら、その分、社会にお返しをし始めなければなりません」と王さんは言うのである。



 
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