中日間の親近感を回復するには
 
                                       于文=文・写真

「唐装」を着た筆者

  2年前、私は交換留学生として、日本で学んでいた。帰国後、北京で就職したが、このところ、中日間には不愉快な出来事が多く、心を痛めていた。

  この夏、中日両国人民の友好写真集出版を記念して東京・六本木で開かれた大型写真展の手伝いのため、東京に派遣されることになった。

  懐かしい日本に再び行けると思うと心は躍ったが、最近の中日関係を考えると少し心が重かった。期待と不安が交差する中で、私は東京の土を踏んだ。

変わってしまった日本人

多くの中国からの観光客が訪れるようになった東京・浅草寺(写真・田亜非)

  東京はそれほど大きく変わってはいなかった。新宿は相変わらず人の波で埋まっていたし、浅草の観音様(浅草寺)は、線香の煙が絶えなかった。留学時代に住んでいた留学生寮の小さな庭にあったビワの木は、今年もたわわに実をつけ、早稲田大学近くのたこ焼き屋は相変わらず長い行列ができていた。

  しかし、東京はやはり変わっていた。街の食堂で、見ず知らずの日本の大学生が突然、私に問いかけてきた。「中国人はみな日本人が嫌いなのはなぜですか?」

 私はびっくりした。留学していたときには、こんなことはなかった。私の周囲の級友たちはみな中国の発展が速いと感嘆し、中国へ旅行するために争って私から中国語を学んだ。あの頃、私は中国人であることを誇らしく思ったものだ。

  しかし今は、日本人から見た中国の姿は変わってしまったようだ。「中国人はみな日本人が嫌い」という言葉の中に、この私まで含まれているのか。誤解と偏見が、両国の国民の間に障壁を作っている。日本は本当には遠い国になってしまった。

  戦後、友好的に付き合ってきた両国の国民の間に、相手を信頼しない気持ちが生まれてしまった。中日関係がこんなに複雑では、果たして写真展はうまく行くのだろうか。私は心配になった。

誤解と偏見を解くきっかけに

日本留学時代、筆者はある中学校の文化祭に参加した

  東京・六本木ヒルズ52階の大展望台で開催された写真展には、観客が引きも切らずにやって来た。熱心に写真に見入るお年寄りたちの中には、ノートにメモをとっている人もいた。「中国と日本がこんなに深くて長い源を共有していることを、この展示を見て初めて知りました」という若い人もいた。

  観客の1人は「日中友好を大いにやろうという声を、長い間、聞かなかったなあ」と感慨を込めて言った。私はほっとした。写真展は大成功したようだ。

  会場で私は、中国の伝統的な服を現代風にした「唐装」を着ていた。これが参観者の目を引いたようだ。女性たちは「中国の人はいつもこんな服を着ているの?」と聞いてきた。私は「遊び着として『唐装』は人気がありますよ。仕事が済んだあと、これを着て友だちを訪ねたり、芝居を観たり、お茶を飲んだりするのが最近の流行になっています」と答えた。

  そして「今の中国は、服装の種類が非常に多くなり、中国の有名なブランドも、世界の有名ブランドもあります。人々の着る服はますます個性的になり、皆がそれぞれ自分で美しく着こなしています」と付け加えた。すると女性たちは「きれいな服を着て、自転車に乗って出勤しては、汚れてしまいませんか?」と言う。私は気がついた。彼女たちはまだ中国が、人々が自転車に乗っている時代に留まっているとたぶん考えているのだと。そこですぐ「今は、自家用車を持っている人がますます増えています。タクシーに乗る人も多いし……」と説明した。

  「中国はすごいわね」という彼女たち。その心からの称賛の言葉は、2年前と同じだった。たった1枚の服が、コミュニケーションにつながり、日本の観客に中国を少し理解してもらう。そしてたぶん、誤解と偏見を解く契機となる。写真展のような交流活動は、友好の気持ちを伝え、中国の姿を示して、それが両国関係を積極的な方向に動かす契機になるのではないか、と私は思う。

  観客は、展示された写真や説明文を見ながらうなずいたり、中国灯籠の前で記念撮影したり、会場は和やかな雰囲気に溢れていた。人々の交わす会話の中で、もっとも多く使われた言葉は「中国」と「友好」だっただろう。かつて私が感じたあの親近感が、そこには甦っていた。

第一線が力を合わせれば

中国と日本の職員が力を合わせて、展示用の器材を運んだ(写真・徐訊)

  今回の日本滞在中に、忘れられないことがあった。それは、仕事の第一線で働く日本人と、徹夜の作業の中で、深い友好の気持ちを培ったことである。

  鈴木久勝さんは、森ビルの社員で、森ビルの所有する六本木ヒルズ大展望台の責任者である。ある日の夜、写真展の準備のため、私と2人の技術者は、会場となる大展望台を訪ねた。そのとき迎えてくれたのが鈴木さんだった。

  私は「退勤時にうかがいまして誠に恐縮です。私ども、自分で測量しますので、早くお帰りください」と言った。すると鈴木さんは首を振って「私も少しはお手伝いします」と言う。展示会場に着くと彼は詳しく説明を始めた。「ここは非常用の通路ですので展示パネルを置くことはできません」「ここの広い場所は、民族音楽の実演の舞台になります」

  その夜、私たちはすべての壁と通路を測量し、深夜になってやっと終わった。鈴木さんばかりでなく、第一線で働く日本の職員たちはみな真面目に働き、私たちのためにいろいろ考えてくれ、難しい問題を解決してくれた。中国側の職員も日本の人たちといっしょに努力した。

  写真展は7月28日から8月7日まで開催され、その翌日の午前1時から撤去作業が始まった。百枚以上の展示パネルをまず一カ所に集め、それを解体して梱包する。窓の外には東京湾の美しい夜景が広がっているが、室内では火の出るような勢いで仕事が続けられた。

  作業をしている両国の職員は、言葉こそ通じなかったが、黙っていても理解しあい、協力して仕事を続けた。私は鈴木さんと組んでパネルの枠の鉄パイプを解体した。2人で力を込めてネジを回したとき、鈴木さんは喜んで、ユーモアたっぷりに「日中が力を合わせれば、克服できない困難はない」と言った。私は感動もし、また安心もした。鈴木さんの笑顔を見て私は、中日両国の未来に対して十分に自信を持つことができると感じた。

  撤去作業が終わった時には、東の空がすでにうっすらと明るくなっていた。その数時間後に、私たちは帰国の途につかなければならなかった。六本木ヒルズで私は、留学した時と同様に去りがたい時を過すことができた。

  中国と日本の間には、未解決の問題が存在し、なお不愉快なことも起こっている。それにもかかわらず、私は、官民を問わず、心と心の交流がきっと暗雲を吹き飛ばしてくれると信じている。中日両国関係の夜明けを待ちたい。



 
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