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張志雄=文 魯忠民=写真 |
さまよえる湖
ロプノール(羅布泊)は中国・新疆ウイグル自治区チャルキリク(若羌)県の東北部にある。かつては、中国第2の内陸湖であり、シルクロードの要衝に位置していたため、世間にその名を知られていた。ここはタリム(塔里木)盆地の貯水池になっていて、天山山脈、崑崙山脈、アルトゥン(阿爾金)山脈に源を発したタリム河、コンチ(孔雀)河、チャルチェン(車爾臣)河、ミーラン(米蘭)河などが、いずれもロプノールの窪地に注ぎ込み、湖を形成していた。 また漢代(前206〜紀元220年)には、ロプノールは「広袤300里 其水亭居 冬夏不増減」と『漢書・西域伝』に記されている。「湖の東西南北は300華里(150キロ)におよび、その水は留まって、冬でも夏でも増減しない」という意味である。 ロプノールの水量があまりに豊かなため、かつてはここが黄河の源だと誤解された。そしてその説は、秦の時代から清代末期まで2000年以上も流布されていた。 4世紀になると、ロプノールの岸にあった楼蘭古国では、はやくも用水を厳しく制限する法令が出され、6世紀になると、あれほど栄えていた楼蘭古国は、不思議なことに忽然と消えてしまった。
清代の末期には、ロプノールは増水時でも、「東西の長さ8、90里、南北の幅は2、3里から1、2里で、場所によって異なる」といわれる小さな湖になっていた。1921年、タリム河は川筋を変えて、東に向かって流れ、ロプノールに注ぐようになった。1950年代には、湖の面積はふたたび2000平方キロ以上に広がった。 だが1960年代になると、タリム河の下流は流れがとまり、ロプノールはだんだんと干上がっていった。そして1972年末、完全に干上がってしまった。このことからロプノールは「さまよえる湖」と呼ばれている。 1876年、ロシアの将校、プルジェバルスキーがロプノールの西南にあるカラ・ブランとカラ・コシュンの2つの湖を発見し、「ロプノールを見つけた」と発表した。 1900年、スウェーデンのスウェン・ヘディンは、ロプノールに到達し、正確にロプノールの位置を確認したうえ、楼蘭古国をも発見した。そして多くの貴重な文物を略奪した。これは世界を驚かし、探検家の間ではロプノール探検ブームを引き起こした。 1950、60年代には、ロプノールは中国の核実験の基地になり、軍事上の立ち入り禁止区域となった。
1980年代になって、中国科学院新疆分院の彭加木研究員が、立ち入り禁止の解除後、初めてロプノールに入って調査した科学者となった。不幸なことに彼は、1人で水を探しに出かけたまま、行方不明になってしまった。 この事件でロプノールはふたたびに世間の注目を集め、専門の学者、メディアの記者たちが次から次へとここへ調査にやって来た。さらに、単独で探検した余純順が遭難し、これに刺激され、ますます多くの人が観光や探検にここに来て、「死の海」に挑戦するようになった。 車椅子で砂漠の道を進む 今年35歳になる尹小星さんは、幼いとき、小児麻痺にかかり、足が不自由で、車椅子の生活を送っている。しかし彼は、誰の助けも借りずに車椅子で、台湾を除く中国すべての省や自治区を回ってきた。古代シルクロードにも挑戦し、タクラマカンの大砂漠を横断して生命の限界に挑み、さまざまな記録がギネスブックに載った。これまで彼が走破した距離は7万6000キロに及ぶ。 「今度はロプノールを通り抜けよう」――尹さんはまる4年間も準備に費やした。彼がロプノールに挑戦しようと思い立ったのは、ここが「死の海」と恐れられているのを知ったからだ。 尹さんはコルラ(庫爾勒)の野生ラクダクラブと連絡をとった。尹さんからの電話を受けたのはクラブの責任者の黄衛国さんだった。「尹さんが、『ロプノールの道は要するに歩けるのですか』と聞くので、『一部の区間は難しいだろう』と答えたのです。すると彼は『かまわない。這ってでも通り抜ける』というのでした」と黄さんは回顧する。
尹さんの決意を聞いた黄さんは、尹さんのガイドを引き受けようと決心した。クラブを創設してからこれまで、黄さんは39回もロプノールに入ってきたが、障害者のガイドを勤めるというのは、特別な決断が必要だった。 2004年11月20日、尹さんはコルラを出発した。一行は8人で、尹さんのほか、ガイド兼運転手であり、後方支援を担当する黄衛国さん、カメラマン1人と2人の助手、それにペンの記者1人とカメラの記者1人、それに58歳で40回ほどロプノールに入ったことのある経験豊富なベテラン運転手1人。 ベテラン運転手が運転する六輪駆動の大型トラックには、飲料水、食糧、肉、野菜、テント、寝袋、テーブルと椅子、炊事用具など、生活に必要な物資が積み込まれた。他に2台の四輪駆動のランドクルーザーが同行した。連絡用に、全地球測位システム(GPS)、衛星電話など、砂漠の中での必需品も積み込んだ。 悪戦苦闘の旅
車で2日間、500キロ以上の道を走って、ようやくロプノール北岸にある土垠というところに着いた。ここにはヤルダン地形と言って、河の堆積物が風化によって、一定方向に侵蝕された珍しい地形が広がっている。 尹小星さんはここから車椅子をこぎ始めた。南から北へロプノールを縦断する。その距離は約100キロ。 初日は、土垠から楼蘭文物保護ステーションまでの行程である。砂の道は軟らかく、車椅子の車輪のタイヤは細すぎる。黄色い砂の中に、少なくとも10センチほどめり込んでしまう。このため尹さんは、必ず両手で車輪を回さなければならない。時には車椅子から降り、跪いて車椅子を引っ張らなければならないのだ。 こうして1日の道のりを走り終えたとき、尹さんの白い手袋は早くも擦り切れてしまった。だが幸いにも、彼は30セット以上の予備の手袋を用意していたのである。 尹さんは、太陽が昇るとともに1人で歩き始め、事前につくったスケジュールに基づいて、はっきりしないロプノールの道を行き、日が落ちる前に後方支援の人たちが選んだキャンプ地に着いて休むというのが毎日の任務だ。 ロプノールは神秘的なところだ。ロプノールの西岸にある楼蘭古城への旅は、神秘的でスリリングなものだった。 その日は大風が吹き、風に巻き上げられた地表の土が車の窓ガラスをすべて遮り、何も見えなくなった。ランドクルーザーは、左へ行ったり右へ曲がったりしながら激しく揺れた。こうして2時間以上進み、やっと楼蘭についたとき、意外にも風がやんだ。
目前には、仏塔や「三間房」と呼ばれる建築物、古村落の遺跡がありありと見えた。まもなく土に帰ろうとしている胡楊(ハコヤナギ)の無数の残骸がそこに静かに横たわり、あたかもかつての栄光を語るかのようだった。古代都市としての楼蘭は、およそ4世紀中葉までに存在していたが、住民たちはこの土地から200年かけて去っていった。 ロプノールの広い道から脇道が枝分かれしているところがある。1996年6月、上海の余純順は、ここで道を間違え、地表の温度が60度にも達する地面をわずか15キロ進んだだけで、自分と後方支援の人たちが事前に置いた水と食品を探し当てられず、ついに砂漠の中で永久の眠りについたのだった。 11月26日、尹さんのロプノール行3日目の夕方、彼は1歩、また1歩と、8年前からまだ果たしていない宿願の地に近づいた。その宿願とは、遭難した余純順の墓の前に座っていっしょにタバコを吸いたいということだ。 墓碑から二十数メートル離れた場所で、尹さんの車椅子は停まった。彼は長い間、墓を眺めていた。このとき、夕日は血のように赤く、月が昇って、日月がともに輝き、余純順の墓碑を照らした。尹さんは車椅子に積んだ最後の1瓶の水を祭壇に供え、残った最後の3本のタバコにすべて火をつけた。そして言った。「8年にもなってしまいました。ここロプノールで、やっとあなたに追いつきました」 風雨の後に陽光が来る
その夜、尹さんはとくに、テントを余純順の銅像の前に張った。明月は千里を照らし、この5日間のうち、もっとも寒い夜となった。翌朝、太陽が昇るころ、テントの内側は、氷と霜がびっしりと貼り付いていた。車の中に置いてあったミネラルウォーターもカチカチに凍っていた。尹さんは朝食も食べず、セーター1枚と赤い外套を着て、車椅子をこいで、また新しい1日の旅を始めた。 またある日、尹さんは、ロプノール入りしてからもっとも苦しい2つの区間にさしかかった。それは6キロの砂地の道と3キロに及ぶ塩の固まった道である。 尹さんの進む速度は、最初は1時間2キロだったが、だんだんに時速3キロ、4キロとスピードアップしていた。これはおそらく、路面の状況や地形がだんだん分かってきたためだろう。 しかし、車椅子を降り、砂の道を這って進むようになると、尹さんは、4時間を費やしてもわずか2キロしか進むことができなかった。細かい砂が5層に重ねた膝当てと、3層に重ねてはいたズボンを通り抜け、地面につく左足の膝は、あちこち血がにじみ出ていたのである。
次の日、尹さんは20キロ以上も進んだ。路面がわりに平らだったうえ、なんと風という「自然の動力」にも恵まれたからである。車椅子につけた2本の旗が翻り、前に向かってはたはたと鳴った。その旗の1つには「風雨の中、これぐらいの苦痛は何でもない」と書かれていたのがとくに目を引いた。 その後、予定していた2日間の行程は、意外に順調に進み、1日繰り上げて旅は終わった。我々はロプノールの南岸の紅柳灘にある砂の小山に、尹さんのためにゴールの横断幕を張った。 2004年11月29日午後2時50分、尹小星さんは9日間で、車椅子に乗ってゴールを通り抜けた。これは、中国国内では最初の、身体障害者による単独の車椅子のロプノール縦断が成功した瞬間だった。 |
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