婁ショウ=文 孫志軍=写真 |
現在、莫高窟には約3000体の彩色塑像があり、1400体ほどが当時の姿を残している。仏、菩薩、弟子、天王、力士の塑像は、時代とともにその表現も変化した。造仏師たちの豊かで卓越した創造力は、個性のある芸術を作り出し、人間的な感情を与えられた仏たちは、後世に伝わる不朽の名作となった。 |
元の時代(1271〜1368年)以前に作られた約2000体のうち、ほぼ完全に保存されているのは1400体ほどで、その他は後の時代、特に清の時代に彩色し直し補修されたため、元の形が失われたものは少なくない。 莫高窟の塑像は、仏、菩薩、仏の弟子、天王、力士が主なもので、その立体的な造型は石窟内でとても際立っている。また塑像に施された彩色と壁画はとても調和がとれている。 南北朝時代の特徴
北朝時代の塑像は、丸彫りの像と影塑に分けられる。主となる仏、菩薩、弟子などは、壁に貼りついた形で立体的に造型され、付属的な供養菩薩や、飛天、千仏の像は、土の型を用いて作られた浮彫りで、中心塔柱や四面の壁に貼り付けられている。 早い時期に作られた塑像は、ふくよかな顔をし、体つきは強健で肩幅も広い。単純な動きの造型はどっしりとしており、その手法は簡潔である。 仏の像は、右肩を出した上半身に、納衣か丸い襟の袈裟を身につけている。菩薩像は、髷に冠をかぶり、髪の毛は肩に垂れ下がっている。上半身は、何も身につけないものや天衣を袈裟懸けにした像があり、下半身は長いスカート状の裳を纏い、その襞は、ガンダーラ手法(ガンダーラは、現在のパキスタン北西部・ペシャワール地方の古名)で細かく彫刻されている。この時期の塑像は、西域の仏教芸術の影響が見られる。 北魏(386〜534年)後期、中原の漢族の服装が敦煌に伝わり、南朝の「秀骨清像」(美しくて上品な像)のスタイルが流行った。塑像の顔は美しく穏やかで、体つきは平たい。高い襟に、ゆったりした袖の上着を着、胸の前で結び目をつくり、さらに対襟(中国服の上着の1種。前ボタン式で、襟は前で合わせる)の袈裟を纏った像も見られ、当時の南朝士大夫の洒脱な様子が垣間見える。中原の芸術は、絶え間なく敦煌に深い影響を与え、中国独特の仏教芸術が現れた。 頂点を極めた塑像芸術
隋の時代(581〜618年)は、敦煌の塑像芸術が成熟に向かう基礎作りの時期である。北魏時代の、仏一体と菩薩二体を安置する形式を受け継ぎながら、大型の力士や天王の塑像が現れた。また、過去、現在、未来の3世仏や、仏の両側に置かれた弟子の阿難と迦葉、跪く胡人(胡は古代北方や西域の民族に対する総称)、合掌し仏を拝む小さな供養菩薩を作ることで、仏が説法する仏教世界の場面を立体的に表現した。 隋代の造仏師は、外来からの造型規範の束縛を突き破り、当地の民族的な様式を次第に形成していった。 莫高窟の塑像芸術は、数百年にわたる制作の積み重ねによって、唐の時代(618〜907年)にその頂点を極める。北魏や隋代に作られた早期の塑像は、ガンダーラやグプタ(ガンジス川流域を中心に、北インドを統一したインド人の古代王朝)など外来の影響を多く受けていたが、しだいに豊かで多彩な民族伝統の中に融合されていった。仏龕や仏壇(須弥壇)に安置された彩色塑像は、壁から離れた丸彫りであり、石窟という芸術的空間で、立体性と独立性を現している。 唐代の造仏師は、北魏と隋代の素朴な造型と彩色に満足せず、絵画と彫塑の才能を活かし、素朴な泥塑像に豊かな色を施し、造型芸術の魅力を強めていった。 個性のある芸術
敦煌の塑像は宗教の神々のため、題材はかなり制限され、各石窟には同じ仏像が繰り返し現れている。また仏像を作る上で多くの制約があり、同じような造型になりかねない。しかし名匠らは、豊かな想像力と卓越した創造力により、優れた写実の技法を用いて、数千体の塑像に様々な工夫を凝らした。 それは、仏像の姿や服飾、体つき、動き、特に仏像の性格や心理の細かな表現をすることで、同じような題材の造型を、健康的で美しく、真に迫った表現や個性ある芸術形象に作り出した。 そして人々は、人間的な思想や感情を仏や菩薩に与え、見る者に精神的なつながりを感じさせ、敬虔で親しみの感情を持たせた。それが、いつまでも変わることのない芸術的魅力を持ち、後世に伝わる不朽の名作となっていった。 2つの大仏像
唐代の塑像の中で、ひときわ目を引くのは、『莫高窟記』に記載されている「北大仏」と「南大仏」である。強大な勢いを持った唐代、支配者は仏教を提唱し、則天武后は全国の各州に、『大雲経』を収蔵するための大雲寺建立を命じ、何度も造仏の命令を下した。唐の延載2年(695年)に作られた、高さ33メートルの北大仏は、則天武后が仏教崇拝を推し進めた時の造営であったと言われている。 南大仏は、高さが26メートルの弥勒大仏で、開元年間(713〜741年)に作られた。南大仏がある石窟は円錐状の空間で、仏像一体しか入らない。下から仏像を仰ぎ見ると、雄大で慈悲深さが感じられる。天井は西夏時代の「金龍華蓋藻井」である。 横たわる釈迦像
唐代、大歴11年(776年)に造営された第148窟の涅槃像は、長さが16メートルあり、右向きに横たわっている。仏の周りには、唐代、最大規模の群像である、菩薩や天竜8部衆、10大弟子、各国各民族の徒弟などの「72の弟子」が作られたが、後世に補修し手が加えられたため、元の姿を全く留めていない。 第158窟の涅槃像は、吐蕃が敦煌を占領した時代のもので、その規模は第148窟と同じであるが、周りに侍立する弟子は壁画に描かれている。唐代の姿をそのまま残す涅槃像は、洗練された造型で均整がとれ、安らかな表情、横たわている姿も自然である。 写実表現の塑像
唐代の僧侶は、社会的地位が非常に高かった。唐王朝は、仏の10弟子(羅漢とも呼ばれる)に準じて、「10大徳」を勅命で封じた。則天武后は、慣例を破って僧侶に紫の袈裟を授け、僧侶は絹織物を身に纏い宮廷に出入りした。唐代に作られた迦葉、阿難の像は、上に刺繍入りの短い下着を身につけ、下は錦の織物を纏い、僧衣や紫の袈裟を羽織っていた。 唐代皇帝の勅命で封じられた敦煌の高僧、洪ベンは、敦煌の有名な僧侶、悟真の師である。洪ベンが亡くなった後、悟真は師のために開窟し、像を作って石碑を建てた。洪ベンの像は、僧衣を身に纏い、結跏趺座している。細かく彫塑された顔は生き生きしており、中国に現存する比較的早い時期に作られた写実肖像塑像である。 女性美を持った菩薩像
唐代の塑像の中でも大切な地位を占める菩薩像は、その数も多く、精巧に作られている。早い時期の菩薩像は男性だったが、隋・唐代以後、徐々に女性的になっていった。唐代の僧侶、道宣は、「宋斉時代(420〜502年)の仏像は、唇が厚くて鼻が高く、目は細長く、丸まるとした顔は男子のようであった。唐代以来、細身に彫塑され、か弱い女子に変わった。そのため、現在、後宮の美人を菩薩と喩える人がいるのである」と記している。 唐代の菩薩には、立像、座像、跪座の像がある。観音、勢至は「十地菩薩」と呼ばれ、蓮華座には仏以外にこの両菩薩しか座ることができない。その上での座り方は、片方の足を曲げ、もう片方を下ろし、「遊戯座」とも呼ばれている。また、立像の観音、勢至菩薩もある。菩薩像は、比較的自由な姿をし、均整のとれた身体、豊かな頬、きめ細かい肌、すらりとした細い両手、ふくよかな両足、瓔珞を飾った胸元など、至る所に女性的な特徴が現れている。菩薩の女性化は、当時の世俗的な好みに合い、一時流行した。 老練な弟子たち
弟子像は北周時代から現れはじめ、隋代には、顔や体の造型が少なからず発展し、唐代になると、老練で慎み深い様子の典型的なイメージが固まった。 隋代に作られた、年老いた迦葉は(第419窟)、四角い顔で、不ぞろいの歯に皺だらけの顔、たるんだ鼻の両側の筋肉、くぼんだ目は威勢の衰えを現し、骨と皮になった胸の前には、鉢を持った、やせ細った手が置かれ、苦労を重ねてきた迦葉を現している。 唐代の第45窟には、仏の弟子・阿難と迦葉の塑像もある。等身大の青年阿難は、おなかの前で手を合わせ、腰を左にねじりながら体はやや右に傾け、表情は自然でゆったりしている。刺繍された衣装を着、赤い袈裟を羽織って、得意満面である。この時代の迦葉は、老練で慎み深く、権威がある気風を持ちながら自信を感じさせる。 中原式と西域式の天王像
仏教の守護神である天王と力士は、隋の時代から四天王として現れ始めた。初期の天王像は、全体的なバランスがあまりとれておらず、両目を見開いた様子は勇猛であるように見えるが、内面的な力強さに欠ける。 唐代の天王像は2体で、甲冑を身に纏い、フェルトの長靴を履き、こぶしを握り締めて目を見張った様子は力強く見える。この2つの時代の天王像は、漢像と胡像に分けられ、甲冑の形も、中原式と西域式に分けられる。
くぼんだ目、高い鼻を持つ西域風の天王が現れたのは、広い地域を統一した唐代の政治情勢と分けて考えることはできない。当時、多くの少数民族の首領たちは、唐王朝から将軍に任じられ、国の統一を守る戦いの中で大きな役割を果たした。こうした情勢の中で天王像が作られたのは、啓発的な意味が込められていることは間違いない。 時代の流れ 晩唐になると、敦煌の塑像芸術は次第に衰退の道をたどっていく。多くの塑造技術は活力を失い、さらに激動する社会情勢や経済の悪化により、芸術家たちは、以前のように良質の塑像材料を手に入れる保障もなくなり、芸術的創造力を十分に発揮できなくなった。そのため、塑像の表現は硬く、表情も精彩を欠き、内在的な生命力が失われていった。 西夏・元時代になると、莫高窟での新しい塑像は少なくなり、主に前代に造営された石窟内での補修や作り直しが行われた。こうして莫高窟の塑像芸術は、その輝かしい創作の全盛期を終えたのだった。
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