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丘桓興=文 |
2005年11月20日は、胡耀邦・元中国共産党中央委員会総書記の生誕90周年にあたる。これを記念して、北京や郷里の湖南省瀏陽市、胡氏が眠る江西省共青城などでは、さまざまな形で、広く敬愛された指導者の生涯と崇高な人格を追想した。 当時の社会混乱を収拾 胡耀邦氏は貧しい家庭に生まれ、1931年、革命に身を投じて青少年の組織活動に携わった。1952年から長期にわたって共産主義青年団中央委員会の活動を指導したことにより、青年たちの称賛と推戴を受けた。しかし「文革」が始まると、ひどい攻撃や迫害に遭う。一日に何度も「つるし上げ」を受けた日もあった。それでも胡氏は堂々たる正気を失わず、決して屈服しなかった。 「文革」が終わると、共産党の中央党学校の副校長に就任した。そして、思想解放の宣伝に力を尽くし、社会混乱の収拾に努めた。 1977年12月、党の中央組織部部長に就任した胡氏は、さまざまな障害を乗り越え、「実事求是」(事実のみに基づき真実を追究すること)と過ちがあったら必ず正すという原則で、全国の無実の事件、架空の事件、誤判の事件の被害者に対する名誉回復を組織し、指導した。そして努力の結果、建国以来の300万人以上の冤罪者の名誉回復を行い、さらに幹部やインテリ、大衆に対して正しい政治評価や相応の待遇を下した。これにより、人々の気持ちは晴れ晴れとした。胡氏は、ケ小平氏の提唱した改革開放路線に積極的に関わり、全国人民を率いて中国の改革開放の春を迎えた。 大衆と密接に関わる
1981年6月、中共中央主席(後に総書記と改められる)に就任した。地位は高くなった胡氏であったが、非常に温和で親しみやすく、大衆とも密接に関わり、しばしば庶民の中へ入り込んで調査・研究を行った。中国にある2200以上の県のうち、胡氏は1500以上の県で調査・研究を行った。そこでは、各級の幹部や年長者、農民と言葉を交わし、彼らの意見に耳を傾けた。 青海省では、5億ムー(一ムーは約6.67アール)の草原を有効に利用し、牧畜業生産責任制や先進的な畜産業技術、牧草地の改善、牧草の栽培、家畜の品種改良、そして皮、毛、肉、骨、角など畜産品の高付加価値加工と流通によって、牧畜民の収入を増やすよう提案した。 湖北省南西部のトウチャ族地区では、山地を利用し、牧草の栽培、牛や羊の飼育により豊かになるよう提案した。農村の労働力と労働時間の余剰問題については、家庭に手工業の仕事場を設置して、竹木の加工や編み物、醸造、果物の加工などに従事させることにより、農村加工業の振興をはかり、山村の農民の生活を豊かにするという意見を出した。 中国の緑化に努める 胡氏は自然生態にも関心を持ち、1950年代には全国青年植樹活動を組織した。そして総書記に就任したあとは、毎回視察のたびに、現地の生態環境に注目した。1981年8月に河北省を視察したときには、機上からすっかりはげてしまった太行山脈を目にし、どうしたら「黄竜」(黄色く見えるはげ山)を「緑竜」に変えることができるかと考えた。そして、1984年4月に再び太行山地区へ赴き、山々を各農家に請け負わせて植樹し、苗圃を切り開き、「種埋め造林」(雨が降った後、木々の種子を持って山へ上がり、約3センチの深さに種を埋めて鳥に食べられないようにする)を提案した。 1983年7月、西北地区を訪問し、飛行機の窓から黄土高原を見下ろした。緑色や水面はほとんど見えなかった。そこで蘭州についたのち、甘粛省の指導者たちとまる1日話し合った結果、草や木の栽培やその種子の収集、牧畜業を発展させる10の対策、栽培者が利益を得るという政策の実施、先進的な緑化技術の採用などを提案した。 そして北京に戻った後、草や木の種子を奉仕的に収集し、西北地区を支援するキャンペーンを実施するために全国の青少年を動員するよう共産主義青年団中央に要求した。胡氏は自ら模範となって、中南海でコノテガシワの種子を集めたばかりでなく、時間をみては北京市北西部の西山へ出かけ、木々の種子を収集して、甘粛省に送った。 日本の青年3000人を招く
胡氏はいつも高遠なところに目を向け、中日の善隣友好関係を積極的に推進した。 1983年11月、中共中央総書記として初めて日本を訪問した。中日が経済貿易や科学技術などにおいて長期的に安定した協力をはかるため、両国のそれぞれの優位性と互いの需要について以下のとおり述べた。「日本は技術、人材、資金などの面で優勢であり、これらは中国の現代化建設に必要である。一方、中国は資源、労働力、市場など優れた条件があり、これらは日本の経済発展に必要である」。双方の貿易の発展と同時に、経済や科学技術の協力が盛んに行われることを願ったのだ。 胡氏は当時の中曽根康弘首相とともに、「平和友好・平等互恵・長期安定」の中日関係3原則に「相互信頼」を加えて4原則とし、さらに、「中日友好21世紀委員会」の設立を決定した。 また、中日人民が子々孫々まで友好的に付き合っていくために、青年間の相互理解と交流の強化を主張した。訪日の間、各界の青年の代表と会見し、青年3000人の中国訪問を招請した。翌年の9月、日本の青年3000人は中国を訪問し、北京などで楽しい半月を過ごしてすばらしい思い出を作った。 慎ましい寝室 胡氏は生涯を通じて清廉潔白に公務に励んだ。逝去してから5日目、胡氏が生前使っていた寝室に入ったある記者は驚きを隠せなかったという。寝室の大きさは約14平方メートル、窓際には事務机があり、3台の電話機と普通の鉄製の卓上カレンダー、老眼鏡、そして十数本の鉛筆が置いてあった。この部屋の主人が利用していた湯のみコップは、もともとインスタント・コーヒーが入っていたガラス瓶だった。 寝室の北西の隅に置かれていたベッドのシーツをめくると、ツギを当てた敷布団が固い木板の上に敷かれていた。枕は古いメリヤス生地のランニングを使って作られたもので、中にはボロ布が詰め込まれていた。枕もとの棚の上にあった青磁の電気スタンドは、電球を差し込む部分が壊れており、厚い絶縁テープが巻かれていた。 寝室にはほかにも、胡氏が入院していたときの着替えが置いてあり、どれも洗いすぎで色があせるほど着古したものだった。襟元が黄色くなったシャツ1枚、穴があいた毛糸のチョッキ1枚、メリヤス生地のランニング二枚(うち1枚は十数個の穴があいていた)。記者は「これが、かつて4700万人の中国共産党員を指導した胡耀邦総書記の寝室か・・・・・・」と感慨深げにもらした。 |
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