特集2 新しい生活を始めた人々 |
張春侠=文・写真 |
中国の山間僻地で、そこに生きる人々と自然との矛盾が非常に鋭くなっている。昔はそこに住む人々の暮らしを支えることのできた土地が、いまや支えきれなくなっている。人々の生活はさらに貧しくなり、生態環境はますます破壊されている。この貧困問題を根本的に解決するために、寧夏回族自治区は「移民プロジェクト」を始めた。その実態を同自治区の西海固地区に見た。 「振子」のように往来する農民
「吊荘」という言葉がある。これは、時計の振子が左右に行ったり来たりするように、一家が2つの村の間を往来することを意味する。 まず、一家のうち1人か2人が別の場所に行き、荒地を開墾し、そこに窰洞(洞穴式住宅)を掘るか、掘っ立て小屋を建てる。そして、もとの村と行き来するのだ。 誰でも「生まれ故郷の土地は去り難い」という気持ちが強い。また移住する先に対してもなかなか確信が持てない。そうした農民の本当の気持ちを考えて、「移民プロジェクト」が始まった当初、寧夏ではこの「吊荘」方式を採ったのである。 賑やかな寧夏の銀川市の郊外に、蘆草窪区がある。そこは道の両側にびっしりと植えられた高い木々と各種の作物が見渡す限り広がっていた。「20年前、ここは、いたるところに高さ15メートルから20メートルの大きな砂丘があったのですよ」と案内の人は言った。 現在、ここの植物被覆率はすでに33%に達している。ここに住んでいる人はみな、源県から来た移住民なので、ここは「興鎮」とか「興源鎮」とか呼ばれている。 一軒の農家を訪れたが、家には人が居なかった。犬が鳴くのを聞いて、隣の人が出てきた。「この家の人は、たぶん店で忙しく働いているのだろう。しばらくすると帰ってくるよ」と言った。
しかし、どうして鍵もかけずに出かけて行ったのだろう、物がなくなる恐れはないのか、と不思議に思った。 「以前は貧しかったから、しょっちゅう物がなくなったよ。でも今は、暮らし向きが良くなり、家には何でもそろっている。誰が盗んだりするものかね」と地元の人は笑って言った。 この農家の敷地は非常に広い。一棟の大きな瓦葺の住宅のほか、庭の前にはトマトやトウモロコシが一面に植えられていた。庭の一角には牛小屋があり、たくさんの乳牛が悠々と草を食んでいた。 そうこうするうちに、この家の主人が帰ってきた。恵四貴さんといい、今年40歳になる。1988年に源県から「吊荘」でここに来た。 昔住んでいた源県の家のことを話す時、彼は絶えず頭を横に振りながらこう言う。「生きていけないほどだったよ」。当時、彼の家は土地がなく、彼は学校にも行けず、羊を放牧していただけだった。 彼の一家は、母と彼の夫婦、子どもが3人、の計6人だった。村の5、6家族の人たちといっしょにトラックに乗ってここにやって来た日のことを、恵さんは今でもはっきり覚えている。ベッドと簡単な炊事道具、15キロの小麦粉、100元(1元は約14円)の現金、それが一家の全財産だった。
新たな移住地に着いてから、6ムー(1ムーは約6.67アール)の土地と小さな住宅の敷地をわけてもらった。そして政府の補助金400元で、2間の日干しレンガの家を建てた。後にまた借金をして、トラクターを買い、運送業を始めた。 1年後、恵さんは借金を返済し、また四輪の自動車と農業専用の車を買った。2年かけて、家の脇にあった大きな砂山を動かし、家の敷地を1.5ムーから5ムーに広げた。 1996年、恵さんは11部屋もある大きな瓦葺の家を新築した。面積は300平方メートル以上あった。2001年からは、乳牛を買い入れ、乳牛の飼育を始めた。現在、23頭が飼育されており、毎日200キロ以上が搾乳され、280元の収入がある。これ以外に、恵さんの奥さんが潤滑油を売る店を経営している。 全財産はいくらあるのか。恵さんは、1つ1つ指で数えながら「たいしたことはないよ。60万元ほどだね」と言った。 恵さん一家の変化は、蘆草窪地区に移住した人たちの典型である。この地区は、20年にわたる整備の結果、もとは12万ムーの荒地だったところが、農地に生まれ変わった。500万本以上の樹木は、この農地を守る防護ネットに成長した。現在、蘆草窪地区には全部で3万5000人の移住民が暮らし、一人当たりの食糧は平均564キロ、一人当たりの収入は1330元に達している。 寧夏では、2つの村を行き来する「吊荘」式の移住は、1982年から始まった。しかし、当初、人々は新しい移住先に対して半信半疑だった。とくに見渡す限りの砂丘を見たときには、がっかりしてしまい、布団を丸めてもとの家に帰ってしまった人もいた。
だが、多くの人はここに留まった。彼らは、ここは一面の荒れた砂地だが、黄河の水を引けば灌漑できる、交通が便利で水源も十分ある、という点を見て取ったのだ。 また、移住民の生活を保障するために、ここではさらに一連の優遇政策が打ち出された。彼らが開墾したり、整地したりすると、1ムーごとに60元から80元が補助される。家を建てるときは、400元の補助と必要な材木が与えられる。困窮家庭には、さらに枠外の救済補助が与えられる。そのうえ、移住する前の居住地で請け負った耕地は、2、3年はそのままにして、引き続き耕作できる。引っ越してから3年間は、食糧の自給できない人には、政府が食糧を補給し、電気料金を免除する、等々、である。 20年が過ぎた。移住民の生活に著しい変化が起こった。もとの家に帰ってしまった人たちが、いろいろ手を尽くして、続々と戻ってきた。政府が彼らを適当な場所に移住させることができない場合は、彼らは親戚や友人を頼ってやって来た。 2004年末までに、寧夏回族自治区に作られた「吊荘」は24カ所、移住した貧困移住者は32万8000人、開発された耕地は83万ムー、建てられた家屋は8万5000室にのぼる。 と同時に、移住民が引っ越して行ったために空けられた耕地は235万ムー、これによって、元の土地に残った農民の耕地は増え、また、その地の生態環境が改善された。 「エコ移住」の新たな試み
「吊荘」による移住は、一定の成果をあげたとはいえ、ほんの一部の人たちの貧困問題を解決しただけだ。大多数の貧困人口は依然、山間部に留まって暮らしており、そこの生態環境は依然、根本的に改善されないままである。 2001年6月、生態系を守るため、村をあげて引っ越す「エコ(生態)移住」が始まり、寧夏、雲南、貴州、内蒙古の4つの省と自治区が、「エコ移住」の最初の試験地点になった。南梁農場は、寧夏の「エコ移住民」を重点的に受け入れたところの一つだ。 南梁農場の移住民の村に行くと、真っ先に目に飛び込んでくるのは、棟と棟とが整然と並んで建っている赤レンガ造りの家々である。きちんと手入れされた小さな庭で、40歳そこそこの楊万貴さんが、自分の菜園の世話をしていた。ほかの移住民と同じように、家の庭にもトマトやネギなどの野菜が植えられている。 昔、彼が住んでいた西吉県では、9ムーの耕地を耕していたが、1ムー当たり200キロの食糧しか作れなかった。換金しても200元にしかならない。だが、ここに引っ越してきて2年目の2004年には、畑に小麦やトウモロコシなど多くの作物を植え、1ムー当たりの食糧生産は倍の400キロに達した。
毎年5月から10月まで、寧夏は、特産のクコの実を採る季節で、農場は多くの人手が必要だ。楊さんの妻は、クコを摘む仕事をし、毎日20元前後を稼ぐ。現在、彼らは2人の息子を学校に行かせ、さらにトラクターなどの農機具を購入した。 南梁農場の移住民村は、回族と漢族によって構成されている。彼らはともに2003年、源県と西吉県から引っ越してきた。全部で270戸、1300人余りである。 引っ越す前、移住民たちはまったく自信がなかった。そこで関係部門は彼らを組織して、農場を現地視察させた。彼らは畑に着くと鍬で土を掘り、土の層がどれだけ深いか、農作物が成長できるかどうかを調べた。その後、農家の畑に行ってトウモロコシがどれだけ良く育っているかを見た。 また、国は全員に1000元ずつを補助し、移住民の一家が60平方メートルで2間の住宅を建てるのを援助した。さらに彼らがもと住んでいたところで、耕作をやめ、林に戻した土地に対しては、8年間、毎年、1ムー当たり100キロの食糧と20元の苗木管理費を支払う。このほか、移住民たちは南梁農場に移住した後、農閑期には農場や銀川市で仕事をし、毎日少なくとも20元、多ければ50元稼げる。
2004年、移住民の1人平均の年間収入は、もとの200元から1000元になった。90%の家庭にはテレビやVCDがあり、全村には40台以上のオートバイと20台以上の自動車がある。また60%の家が、建て替えられるか、増築されるかした。 昔住んでいたところでは、飲み水を得るにも、山を一つ越えて汲みに行かなければならなかった。午前3時か4時、空がまだ暗いうちに水を汲みに出かけ、3、4時間かけて帰ってくるのだった。 現在は、どの家にも上水道が引かれている。「以前は、服を買う金なぞまったくなかった。だから女、子どもはみな汚く、ぼろぼろの服を着ていた。今は、ちゃんとした服を数着、持ってない人はいないよ」と移住民たちは言った。 回族の風俗習慣を尊重するため、移住民の村は全村を回族地区と漢族地区の2つにわけた。また、村の中に、回族が信仰するイスラム教の寺「清真寺」を建てる土地を、あらかじめ残しておいた。 しかし、生活習慣や気候などになじめないとか、山間部に比べて物価が高いとか、一部の基本施設がまだ建設されていなかったり、改善中であったりしているとか、移住民たちはいくらか不満に思っているところがある。これは避けがたいことだが、「それなら、故郷に帰りたいですか」と尋ねると、誰もが笑って頭を振るばかりだった。 源県黄花郷黄窪村は、もともと150戸余りだったが、まず60戸が先に引っ越した。53歳になる楊忠保さん一家もそのうちの一戸である。少し前、彼は帰省した。村人たちは彼を見るとみな「今の暮らし向きが良いのだろう。見たところ若返ったようだね」と言った。 もともとこの村には耕地は400ムーしかなかった。そこで村民は、木を伐って開墾し、畑を作った。このため生態環境は破壊された。今回、楊さんは、村に帰ってみると、村には人が少なく、草がよく茂って、青々とした緑が一面に広がっていた。「来年は植樹するらしい。そのときにはもっときれいになるだろう」と楊さんは言った。 最初の「エコ移住」が行われてから2005年9月末までに、寧夏では、全部で「エコ移住地」が15カ所建設され、累計で7万6000人が移住した。これによって、黄河灌漑区域の土地資源を有効に利用しただけでなく、寧夏南部の山間部の人口圧力を軽減し、六盤山地区の生態環境を改善した。2010年までに、30万の貧困人口を西海固地区から移転し、六盤山の森林面積を、現在の100万余ムーから350万ムーに拡大する計画である。 |
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