実在する『山の郵便配達』
馬とともに険しい道をゆく
                                                                                 霍仲濱=文

 2001年、中国映画『山の郵便配達』が日本で上映された。まるで絵のような境地と奥深いストーリーは、多くの観客の心を打った。実は、中国南西部の山中には、このような郵便配達人が多く実在する。四川省のムリ(木里)・チベット族自治県の王順友さんもその1人だ。王さんは映画で描かれているような美しい風景の中で、その美しさを楽しむ暇もなく、過酷で単調な郵便配達の仕事を行っている。

過酷な環境

郵便配達をする王順友さん(写真・趙晶)

 ムリ県は、四川省涼山イ族自治州に属し、「大シャングリラ」(四川省、雲南省、チベット自治区にまたがる広大な地域)の東端に位置する。県内には、いくつもの切っ先のような山の稜線が平行に並んだり重なりあったりしている。山と山の間には深い谷があり、雅゚江など静かで深い大きな川が流れ、周囲は原始森林で覆われている。

 風景は非常に美しいが、山は高くて険しく、道は歩きづらい。郵便配達人は馬やラバに郵便物を背負わせ、長い道のりを歩いていくほかない。このような馬やラバを使っての郵便配達ルートは、「馬班郵路」と呼ばれる。

 王順友さんの「馬班郵路」は、ムリ県の県城(県人民政府が置かれている町)から、ミャオ族が住む白ティアオ(石に周)郷と三桷椏郷を経てラ波郷まで、往復360キロの道のりだ。途中、十数の峰を越え、4つの川を渡る。全行程で14日間かかるが、毎月2往復しなければならない。

 王さんは20年来、馬やラバをひき、辺鄙な山の中に郵便物を配達してきた。これまで歩いた総距離は26万キロに及び、赤道の6周半に相当する。

 ムリ県の山岳地帯にある道は、ごろごろと石が転がっているなか、馬やラバが踏みつけてできた足跡をたどったものだ。片側は高い山で、もう片側は底が見えない断崖となっている。道の幅は、馬やラバが一頭ようやく通れるほどしかない。

 中国の地理の教科書には、この地域に連なる横断山脈の天候について「山には四季があり、5キロごとに天気が異なる」と書き表されている。

 春、道中の察爾瓦山はまだ氷雪に覆われている。空気は薄く、気温はマイナス10度以下。しかし察爾瓦山を越え、雅゚江の河谷に着くと、気温はとたんに30度以上になり、蒸し暑くなる。急に盛夏が訪れたかのようだ。

配達ルートの風景はすばらしいが、配達人にそれを楽しむ暇はない(写真・雷声)

 王さんは、峠が鋭い刃のような山中を年中往復し、汗びっしょりになったり、その汗が凍ったりという変わりやすい天気を、何度も体験してきた。

 山の奥深いところでは、1〜2日間、誰ひとり見かけないことがよくある。このような場所で怖いのは、疲れよりも孤独だ。夜になると、人里離れた森のなかで、かがり火を焚き、テントを張る。そして、ツァンパ(ハダカムギを炒って粉にしたものにバターを入れて練る。チベット族の主要食品)や焼いたジャガイモを食事にし、自作の山歌を歌う。

 王さんが山歌と酒をこよなく愛することは、彼をよく知る人ならみな知っている。ムリ県の冷酷な「仙境」のなかで、孤独と闘うには、これが最もよい方法なのである。

数々の危険

 王順友さんは、父親から手綱を受け継ぎ、郵便配達に従事するようになった。8歳の冬のある夜のことを、今でも忘れられない。

 その夜、父親は馬の尾を引っ張って家の門を押し開けたとたん、倒れた。そして「目が雪焼けした」と言った。母親は薬草を探してきて煮込み、その湯気を父親の目にあてた。翌朝、父親は目が見えるようになったと言い、郵便物を馬の背にくくりつけて、また出て行った。

 父親の王友才さんはムリ県初の郵便配達人であり、まる30年間勤めた。45歳のとき、もう歩けなくなったため、当時20歳だった息子の王順友さんに郵便配達を引き継がせたのだ。このとき、王順友さんは人々から「王大胆(大胆な王さん)」と呼ばれていた。配達ルートは非常に危険だったからである。

NHKなど多くのメディアが王順友さんを取材しているが、配達ルートの全行程を同行した人は一人もいない。写真は王さんを撮影するNHKの記者(写真・劉豆)。

 配達ルートには、「99折り」と呼ばれる場所がある。それは、垂直に切り立った断崖の上の曲がりくねった小道で、頭を上げると絶壁があり、頭を下げると大波が逆巻いている。少しでも気を緩めると、崖から落下してしまう。そうなると、もう死体も見つからない。しかしこの道は、配達のために必ず通らなければならない。

 1995年11月のある日、王順友さんはラバの後ろについて、「99折り」を歩いていた。そのとき、林の中から突然、1匹のキジが飛んできた。ラバは驚いて暴れた。王さんは急いで手綱を引いた。するとあろうことか、ラバが突然、後足で王さんを蹴り、それがちょうどお腹の辺りにあたった。王さんは両手でお腹を押さえ地面に倒れこんだ。するどい痛みを感じたが、ひと息入れた後、再びラバを引いて歩き出した。

 9日後、王さんはようやく配達を終えた。現地の人に支えられて病院へ行ったときは、すでに息絶え絶えの状態だった。腹腔をひらくと、血膿でいっぱいだった。「2時間遅ければ、死んでいましたよ」と医者は言った。4時間の手術の結果、命は助かったが、体は前より弱くなってしまった。

 また、雅゚江にかかるつり橋の手前を歩いていたときのことである。十数メートル前に荷を積んだ馬の一隊がいて、彼らはちょうど橋を渡っていた。するとそのとき、つり橋の片側の腕の太さぐらいのケーブルが突然切れ、橋全体がまたたくまに90度傾いた。つり橋の上にいた人と馬はまっさかさまに落下し、冷たく急な川の流れに呑み込まれてしまった。その恐ろしい光景に、しょっちゅうこの山道を歩いている王さんも、驚きのあまり呆然とした。

 このような事故は初めてのことではない。かつて雅゚江を渡るときには、「溜索」(両岸を結んだロープにぶら下がって滑る)を使っていた。ある日、もうじき対岸に着くというときに、「溜索」のロープが突然切れた。王さんは2メートル余りの高さから投げ出された。幸いなことに、落ちたところは岸辺だった。しかし、郵便物は川の中へ飛んでいってしまった。王さんはとっさに、木の枝を掴んで、腰までの深さがある水の中に入っていった。水の流れは急で、落下して弱っていた王さんは、やっとのことで郵便物を岸に引き上げ、くたくたになって倒れてしまった。

外界との連絡ツール

 ムリ県には、17の民族が住んでいる。そのうち、9つの民族は何世代にもわたって、ここに住み続けている。人口が最も多いのは、チベット族、イ族、ミャオ族。人口の90%が山奥の小さな村に分散しており、人口密度は平均で1平方キロあたり9人だ。

 まるで昔話のような居住形式のため、交通や通信が非常に不便である。ほとんどの地に、電話や道路が通っていない。しかし郵便業務は1976年から、ムリ県のすべての郷(県または県の下の区の指導を受ける行政区域)に行き渡っている。総距離2303キロに及ぶ15本の配達ルートはいずれも、「馬班郵路」だ。ここに住む人々は、王順友さんのような郵便配達人が山を登り、川を渡って来てくれることにより、外の世界と連絡できるのである。

 中国の普通郵便は一通0.8元(1元は約14円)であるが、ここでの配達コストは、一通あたり平均29.84元かかる。よって、ムリ県郵便局の赤字は毎年、100万元を超す。

王順友さんは時おり、受取人に代わって手紙を読んであげる(写真・雷声)

 1998年8月、ムリ県は100年に一度とないほどの暴雨と土石流に遭った。郷に入るすべての道が破壊され、川にかかっていた簡単な橋も洪水にのみこまれ、ラ波郷はあっという間に外界と完全に断絶された孤島になってしまった。

 人々は咆哮する川の傍らで途方に暮れていた。すると誰かが、「見ろよ! 王さんがやって来たぞ」と大声で叫んだ。そこには、全身泥まみれになって歩いてくる王さんの姿があった。白いラバは泥色に変わっていたが、背に載せている郵便物は、ビニールで何重にも包まれていたのできれいなままだった。

 みんなは王さんのそばに寄り、ケガはないかと聞いた。王さんは「大丈夫だ。道が滑りやすくて何度も転んだよ。橋が全部流されてしまったので、ラバの尾を引っ張って、泥の中を歩いてきたんだ」と答えた。

 人々が「王さん、雨が何日も降り続いているときは、止むまでちょっと待っても構わないよ。危険じゃないか」と言うと、「配達を遅らせたくないんだ。郵便物の中には新聞もあるし、2人の学生の採用通知書もあるんだよ。それに、僕がやって来るということは、ここと外界との連絡が断絶されていないということだからね」と話した。その場にいた人たちは、王さんのこの言葉に深く感動した。

 王さんは郵便物だけでなく、温かい思いやりの心も運んできてくれると、人々は口々に言う。

家で夫の帰りを待つ韓撒さん(写真・郭建国)

 三桷椏郷の鶏毛店やラ波郷の磨子溝は高山区にあり、食物の種類が豊富ではない。そこで王さんは、彼らに高山で野菜を栽培する技術を教えたり、新しい野菜の種を運んできたりした。今では、この2つの村に住む人々はみな自分の菜園を持ち、冬でも新鮮な野菜を食べられるようになった。

 山岳地帯に住んでいると、買い物も不便である。そこで王さんは、郵便物を配達するほか、村人の代わりに塩や茶、薬などを買ってきてあげたり、さらには身銭を切って、都市から水稲や野菜の良種を運んできてあげたりする。人々が荷物を受け取り、顔をほころばせるのをみると、自分はなんて幸せ者なんだろうと思うのだそうだ。

帰りを待つ妻

 王順友さんはよく自分の家は5人家族だと言う。妻、息子、娘、そして馬かラバが一頭いる。王さんにとっては馬やラバも家族の一員なのだ。妻と一緒に過ごすのは、年間たったの20〜30日間だが、馬やラバとは毎日一緒だからである。馬やラバは、最も大切なパートナーだ。

 20年来、道中を共にした馬やラバの数は30頭余りにのぼる。配達ルートが険しいため、馬やラバが働ける期間は短いのだ。丈夫なものでも、数年働くと体力が衰えてしまう。王さんはもう働けなくなった馬やラバを実家へ連れていき、死ぬまで面倒をみてもらう。

 自分には3つの家があると王さんは言う。ムリ県郊外の銀盤組(たった2戸しかない山腹の村落)にある妻と子どもたちとの家、白?郷にある実家、そして配達途中の馬との家である。銀盤組の家では、3ムー(1ムーは6.667アール)の耕地を請け負い、牛が3頭、羊が十数頭いる。石と土で固めた黄褐色の家屋には部屋が4つあり、周りにはまるで桃源郷のような景色が広がる。

 王さんは仕事を始めた年に結婚したため、家庭をつくってからの歳月は郵便配達を始めてからの歳月に等しい。それはまた、妻の韓撒さんが家で王さんを待つ歳月でもある。

途中で一休みする王順友さん(写真・李崇憲)

 痩せ型の韓さんは、まだ46歳の若さであるのに、顔にはたくさんのシワがある。寂しいときはたまにお酒を飲む。夫が山奥で一人野宿するとき、韓さんは夫以上に孤独なのだ。お酒を飲みながらどれだけの涙を流したか、それは彼女しか知らない。

 王さんが歌う山歌のなかのほとんどの恋歌は、妻の韓さんに捧げたものだ。王さんは以前、「3日会わないと、数十日会えなかったようだ」という歌を教えたが、韓さんは笑うだけで覚えなかった。

 王さんの一番の願いは、ムリ県のすべての郷や村に通じる道路をつくり、自動車を走らせて、「馬班郵路」を「汽車郵路」(自動車の配達ルート)に変えることだ。これは、ムリ県政府と当地の郵政部門の願いでもある。2005年、ムリ県のすべての郷に通じる道路の建設が終了した。そして、さらに多くの「汽車郵路」が開通し、郵便配達人の仕事環境も改善されている。

  中国の郵政職員の3分の1が農村地域や辺境での郵便業務に従事している。また、全国の郵便配達ルートの3分の2、郵便ネットワークの4分の3は農村地域や辺境にある。農村部の配達ルートの総距離は353万1000キロに及ぶ。交通環境が整っていないため、「歩班郵路」(歩行による配達ルート)は9000本、「馬班郵路」は200本余り。郵便配達人の多くは、王順友さんのように、「人がいるところに郵便サービスがある」という目標の実現に自分の青春を捧げている。


 
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