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沈暁寧=文 魯忠民=写真 |
3000年にわたる北京の歴史を凝縮し、庶民の文化や生活を生き生きと再現した「首都博物館」の新館が完成し、一般公開された。 面積は6万余平方メートル、5階に分かれた展覧ホールには、古代の玉器から北京の風俗を再現した模型、さらに北京の道路を埋め尽くしていた黄色いタクシーまで、5000点を超える展示が人々の目を楽しませてくれる。
北京には、国宝級の文物や革命の歴史的資料を集めた国家博物館、故宮そのものが博物館になっている故宮博物院があるが、首都博物館には一味違った面白みと深みがある。 「われわれの目から見れば、すべての展示品はみな貴重なもので、それぞれ限りない歴史的、文化的な価値を持っています」と首都博物館の郭小凌館長は言う。さあ、それでは、オープンしたばかりの首都博物館をご案内しよう。 八割が初公開の逸品 これまで首都博物館は、北京国子監(元、明、清代の最高学府)の孔子廟に寄寓していた。しかし展示場は狭く、多くの価値ある文物は、長い間、公開されることもなく眠っていた。
雨が降れば、水が建物の中に流れ込まないように、大急ぎで土嚢を入り口に積まなければならなかった。2001年12月、北京市政府は15億元を投じて、北京・復興門外大街に首都博物館新館の建設を始め、それが昨年末にでき上がったのだ。 博物館一階の大ホールに入ると、まず目に飛び込んでくるのは「牌楼」である。赤い柱と緑のひさしの鳥居形をした大きな門で、昔の北京の濃厚な趣を醸し出している。 楼上に「景徳街」の三字があり、「景徳街の牌楼」と呼ばれている。明代の嘉靖9年(1530年)に建てられた。当時は「景徳街の牌楼」は二つあり、それぞれ歴代帝王廟の門の東西両側に建っていた。「景徳」というのは、古代の聖賢の美徳につき従うことを意味している。
古代建築の研究で有名な専門家の梁思成さんは、北京の「牌楼」の中で、この二つの様式がもっとも雄壮で美しく、彫刻がもっとも精緻なものだと考えている。しかし、1954年に北京が街路を改造したため、「牌楼」は解体されてしまった。その話を聞いて梁さんは、悲しくて涙したそうだ。 しかし幸いなことに、「牌楼」の主な部品は保存されてきた。文化財保護の関係部門が、細心の注意を払って保管してきたのである。今回、新館の落成にともなって、「牌楼」の一つが再び組み立てられ、館内最大の展示品として再度、人々の前にその美しい姿を現したのだ。
1階から5階までの展示ホールには、「古代磁器芸術精品展」「古代玉器芸術精品展」「古代仏像芸術精品展」「京城旧事 ― 老北京民俗展」など、13の展示場がある。展示品は5622点。その80%は初めて公開された逸品である。 展示場の参観ルートを合計すると、3・5キロに達する。すべての展示を綿密に見たいと思えば、少なくとも2日はかかるだろう。 磁器展示ホールには、元代の景徳鎮窯で造られた「青花鳳首扁壷」がある。これは、1970年代に、北京市内で出土した。白い生地に青い絵が描かれた「青花」の磁器の壷は、頭をあげた鳳の首が壷の口となり、巻き上がる鳳の尾が壷の取っ手になっている。鳳の体は円形の壷の上部に描かれ、両翼が壷の両側に垂れ、壷の下部には、満開のボタンの装飾が施されている。まるで鳳が、ボタンの茂みの中を飛び回っているような華麗な情景を現している。
古代陶磁器の専門家、王春城さんは、「この壷のすばらしいところは、千年近く経っても、その色彩が艶やかさを保っていることです。この作品は現在、後世の『青花』の色あいが正しいものであるかどうかを判断する基準になっています」と言っている。 「青銅芸術精品展」の展示ホールに、「班キ」と呼ばれるキが展示されている。キは古代の祭祀用具で、銘文に「班」という人物の名があるので「班キ」と名づけられた。外形は特に目立ったところはないが、キの底に198の銘文が鋳造されていて、これが、西周(紀元前1046〜同771年)の歴史を研究するうえで重要な史料なのである。
この銘文によって、このキの所有者は、3000年以上前である周の穆王の時期にいた貴族の「毛伯班」であることが判明した。銘文はまた、「班」が冊封された経緯と、彼の父親が周王の命を奉じて、3年にわたって周の属国「東国」の反乱を鎮めた功績を記録している。 「班キ」は、北宋の時代に出土し、国宝として歴代の皇室に秘蔵されていた。しかし、清代の末期に八カ国連合軍が北京に侵入し、「班キ」は皇宮から略奪されて、その後、行方不明になっていた。 1972年のある日、文物考古の専門家の程長新さんたちが、スクラップ金属の冶金精錬工場で、偶然、いくつかの文字がある青銅器の残片を拾った。細かく鑑定すると、それらの残片は商(殷)周時代の青銅器であることが確認された。そこで文物の関係者はただちに、鋳つぶすことになっているスクラップの金属の中から、青銅器の残片を一片、また一片と拾いあげ、注意深く修復し、ついに70年以上行方不明になっていた「班キ」を、再びもとの姿に復元したのである。
「古都北京 ― 歴史文化篇」の展示ホールでは、前漢(紀元前206〜紀元25年)の「馬蹄金」が特に人目を引く。この「馬蹄金」の発見も偶然であった。 1970年代のある夏の日のこと、北京郊外の山で、一人の農民が雨を避けようと洞穴に走りこんだ。洞穴はかなり暗く、彼は手を伸ばして手探りするとすぐに、大小二つの形が整った金属に触れた。洞穴から持って出て見ると、意外にも、一つは完全な形の、もう一つは半分の馬蹄形をした金塊だと分かった。その後、彼はこの「馬蹄金」を北京市文物局に渡したのである。 胡同の庶民生活を再現 北京の街の小さな横町や小路を胡同という。首都博物館の新館は、いまはかなり失われてしまった胡同の風情を伝える展示場をつくった。広さは2300数平方メートルにも及ぶ。「京城旧事 ― 老北京民俗展」はここにある。 展示ホールには、昔ながらの北京の胡同が再現されている。その中を歩くと、北京なまりの物売りの声が次から次に聞こえてくる。胡同に面した家々の門をくぐると、一室一室がテーマの異なる展示室になっている。
昔の北京の、正月を迎える風俗を展示した部屋がある。ここに入った65歳になる張さんは、紙で作った飾り灯籠を念入りに見ながら、奥さんにこう言った。「小さいころ、父が蓮の花の飾り灯籠を作ってくれたことがある。もうずいぶん年月が経ったのに、ここでまたそれを見られたよ」 壁を隔てた隣の部屋では、小学六年生の楊貪ちゃんがお母さんに、これまで見たこともない玩具の遊び方を教わっていた。楊貪ちゃんは玩具をいじりながら「お母さんは小さいころ、こんなことをして遊んでいたのか。簡単に見えるけれど、遊ぶととても面白いよ」と言った。 29歳の英国の青年、ジェイムズさんは、周代の青銅器の「鬲」の前で長い間、足を止めて動かなかった。彼は、これがもっとも美しい青銅器だと思った。「本当に素晴らしい。今日ここで、自分が宝の庫の中に入り込んだような気がする。あこがれている中国文化を見ることができた。しかし、ここは広すぎる。すべてを見終わるには何回も来る必要があるでしょう」と言った。 各展示ホールに置かれた感想ノートには、びっしりと多くの感想や提案が書かれている。「ここは北京文化を理解するのにもっともよい場所である」「博物館内を歩くと、歴史の長い回廊を歩いているようだ」「休憩場所で昔ながらの北京の食品を提供したら」……。
首都博物館に収蔵された文物は、主に二つのルートを通じて集められた。一つは競売会社や民間収集家からの購入、もう一つは市民からの寄付である。
2004年7月、首都博物館は約760万香港ドルで、海外に流失した清の乾隆時代の珍品2点を買い戻した。それは「御製緑石地粉彩花卉竜把多穆壷」「白玉鏤雕竜紐方形璽」である。前者は、トルコ石と花をあしらった竜の取っ手のついた壷であり、後者は、白玉に竜を彫った四角いつまみのある御璽である。「この二つの宝物の帰還は、首都博物館の収蔵品をより完全にし、豊かにするものだ」と韓永副館長は言う。 こればかりではない。近年、海外に流失した文物が次々と戻ってきている。清代の「鄭燮手書五経」、宋代の「絹本設色閻立本孔子弟子像巻」など、数多くの貴重な文化財がさまざまなルートを通じて海外から戻り、首都博物館に収蔵された。 同時に首都博物館は、市民からも文物を集めている。市民の持っている古い物の中に、北京の歴史や文化を伝えるものがあるからだ。 索大鳴さんの一家は、北京に住んで16代になる。首都博物館が文物を収集していることを知り、索さんは自分の家にあった27点の古い品物をすべて首都博物館に寄付した。これらの品物は、360余年の間に、索家に伝わってきたものである。「こうした品々は、自分の手元に残すより、むしろ博物館に寄贈した方がもっとその価値を発揮させることができます」と索さんは言う。 その中で、最も注目されているのは、緑や黄色の瑠璃を貼った、百年以上の歴史を持つ古い「冷蔵庫」だ。昔、北京には、氷室や氷庫があった。夏にもっぱら富豪の家へ氷を運んだ。富豪たちは氷をこの「冷蔵庫」の中に敷いて、そこに食べ物を保存した。今日、このような「冷蔵庫」はなかなか見られない。索さんの寄付は、まさに歴史の空白を埋めるものだった。
80歳を超す有名な漫画家の李濱声氏は、古い北京の伝統的な習俗にすこぶる造詣が深い。民俗展示ホールの展示にいろいろ知恵を出しただけでなく、自分がかつて経験した民俗活動を絵に描いて、古い北京の民俗の情景を復活するうえで、その根拠を提供した。 竈祭りの習俗を展示するときには、李さんは手ずからコウリャンの茎で、すでに見られなくなった「竹編馬」を編んだ。「こうしたものは一般に、竈祭りの時にみな焼き捨てられてしまうから、収集できない。これを知った李さんが、記憶をもとに編んでくれました。二匹編んで、一匹は展示に使い、もう一匹は予備用にしています」と首都博物館のスタッフは言っている。 副館長の王武さんは、母方のお祖母さんの嫁入り道具であった二つのクスノキの長持ちを家から運んできた。このほかにも、多くの市民が、自分の「宝物」を博物館に寄贈した。2005年の一年だけで、首都博物館に寄贈された文物は3000件以上にのぼる。 世界一流を目指す
首都博物館は、世界一流の博物館を目指している。それには「ただすばらしい文物を展示するだけではなく、文物の保管施設や進んだ文物修復技術を備えている必要がある」と王副館長は言う。このために2900万元が投入された。 文物はそれぞれ、作られた材質が違う。このため、それを保存するには、温度や湿度のコントロールが材質の種類によってそれぞれ違うようにしなければならない。首都博物館は、温度と湿度を一定に保つ智能化されたエアコン・システムを採用して、それぞれの文物倉庫の温度と湿度を別々にコントロールし、長い期間、文物を保存できるようにしている。 また、貴重な文物に対しては、窒素を入れた保管箱に入れ、酸化して腐食しないようにしている。文物倉庫には10トンの油圧エレベーターがある。これは国内外の他の博物館にはないものだ。このエレベーターは文物輸送車を直接に地下の倉庫へ入れることができるので、文物の輸送は安全で便利になった。
文物の修復について首都博物館は、ナイフ、ピンセットなどの伝統的な道具に代わり、電動歯ブラシや研磨機など近代的な機器を導入した。これらの機器は、効果が優れ、効率が高く、環境保護にもよい。さらに日本から、進んだ空気浄化設備を購入し、文物修復の作業員の健康を保護している。 現在、首都博物館は、絹織物修復研究センターの建設を計画している。国内外の専門家と、豊かな経験や進んだ技術を生かして、絹織物の文物を保護する最も適切な方法を研究したいと望んでいる。 将来、首都博物館はどうなるのか。副館長の韓永さんは「首都博物館新館は必ず北京市民が最も行きたがるところになると信じています。2008年の北京オリンピックのときには、当博物館は世界各国の友人たちに、北京最大の魅力を目の前に展示する場所になると思います」と目を輝かせている。 |
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