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影絵芸人の謝正礼さんと、2人の助手 |
64歳の皮影戯の芸人、謝正礼さんは、甘粛省環県の県城から80キロあまり離れた双廟村に住んでいる。この辺りは、いたるところ谷が縦横に走る黄土高原だ。謝さんたちは、厚く覆われた黄土を削って垂直の壁にし、そこに6つの窰洞を作っている。これらは、謝さんの長男と三男の住まいである。
両端の窰洞の前には、それぞれ赤レンガでできた新しい平屋が建ち、西側の平屋は謝さん夫婦が住んでいる。庭には、雨水を蓄える穴蔵があり、日常の飲用水はこれでまかなっている。
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昔は、ロバに道具箱を載せ、歩いて巡業していた。これは、当時の様子を再現したもの |
謝さんは、皮影戯の家に生まれた4代目である。4人の息子のうち、次男と四男は県城で働き、長男と三男は農業をしている。息子たちは、みな謝さんと皮影戯を演じたことがあるが、環県皮影戯劇団のプロの人形遣いになっているのは四男だけだ。
謝さんは2歳のときに母親を亡くし、7歳から父親に連れられて各地を回った。当時は縁日も多く公演も多かった。ロバに影絵人形を入れた木箱を乗せ、紙のスクリーンを担ぎ、大きな銅鑼を背負って巡業し、上演の時には、4、5人の助手が手伝った。
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謝さんと2人の息子さんの家 |
環県のほかにも、近くの県や寧夏回族自治区、陜西省など各地を数カ月回って公演し、農繁期になってやっと家に戻ってくるという生活を続けてきた。
土地が広い割に人の少ない農村では、文化活動が少ない。そのため、皮影戯が来ると、数十キロ離れた所に住んでいる人たちさえも、山を越えて見にやって来る。
ここ数年、農村の生活も変化が速くなった。そのため、いくつかの村で行われていた縁日もなくなり、公演の数も減ってしまった。そんな中でも謝さんは、1年の3分の1を、農村での皮影戯に費やしている。
窰洞で行われる皮影戯
去年の10月中旬、公演のために20日ほど出かける謝さんを訪ねた。
皮影戯に必要な道具が納められた部屋には、影絵人形が入った木の箱が積まれていた。謝さんが使っている人形は、頭部が500以上、胴体部は200以上あるという。衣装、電球、スクリーン、楽器、銅鑼、太鼓などの道具も所狭しと並べられていた。
翌日の午後、孫さんと張さんの2人の助手がやって来た。公演のための道具をオートバイに乗せ、謝さん一座は公演に出発した。
道は連日の雨でぬかるみ、坂は険しく、滑りやすくて、とても走りにくかった。時おりオートバイを降りて、歩かなければならないほどだったが、道がどんなに悪くて遠くても、縁日の公演を遅らすことはできないと謝さんは言う。
縁日はその土地の村人にとって、1年の中で最も大切な日だ。皮影戯は、人を楽しませるだけでなく、神様を喜ばせ、邪気を追い払って吉祥を求めるためである。謝さん一座は、1年間の何十カ所にもおよぶ縁日の日時や場所、行程などを把握し、公演の予約もすでに終えていた。
十数キロの険しい山道を越え、やっと小西掌村に着いた。村人は分散して住んでいるため、私たちが泊まった王延さんの家に一番近い隣でも、400メートル以上離れていた。
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伝統的な皮影戯『唐王征西』の戦闘場面 |
小西掌村では、毎年秋の取り入れを終えたころ、落鳳山という廟で2日間の縁日が行われている。村では、6、7戸の家を一組にして、各組から毎年順番に一戸の主人が会長になり、その会長を中心に縁日の準備が行われている。
今回は王延さんが会長を務め、彼の家が縁日の主会場になった。5つの窰洞の真ん中の一つは謝さんたちの宿舎であり、皮影戯の舞台である。食事を済ませたあと、窰洞の中の家具を運び出して舞台作りに取りかかった。
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窰洞の劇場。座席は普通の劇場と異なっている |
まずテーブルの上に金属製の枠のスクリーンを立てて、周りを縄でとめ、その後ろには大きな電球を取りつけた。電気がなかった昔はランプを使っていたが、明るさも一定でなく、煙も多かった。舞台裏の三メートルほどの空間には、いくつかの腰掛けが置かれ、銅鑼や太鼓を据え、ここで人形を操り伴奏を行う。
窰洞での公演は、冬暖かくて夏涼しい。それに光がよく集まる。そして窰洞が崩れるほど歌声が高く響きわたることから、村人から「吼ヒ窰」と呼ばれ、音響効果にも優れている。
廟神の化身「老爺」
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熱心に見入る観客 |
夕方になると村人が集まり、窰洞周辺はにぎやかになり始めた。辺りが暗くなると、外から爆竹の音がし、「老爺」と呼ばれる廟神の化身が現れた。「老爺」とは、赤い布で覆った腰掛けで、それを担いだ2人を村人たちが取り囲みながら、2.5キロ離れた落鳳山廟から「老爺」を迎えた。
皮影戯の芸人はチャルメラを吹きながら、窰洞の中に設けた「神壇」に「老爺」を安置し、「老爺」が賛成の意を示すまで何回も焼香や占いを繰り返した。この土地で行われている「投コウ」という占い方はとても面白い。それは、片面が平らで、裏の面が突起した2つの桃の木片を地面に投げ、反対であれば「老爺」が賛成し、逆であれば反対ということを意味する、縁日の順調を祈るための一つの儀式である。
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小学生に影絵芸術を理解してもらうために、影絵人形の操作を解説する芸人を学校に招いている |
「老爺」が賛成するという結果が出ると、上半身裸に赤い布のたすきをかけた「馬夫」と呼ばれる人が窰洞に入ってきて、スクリーンの前で踊り始めた。そして、皮影戯を始める儀式の神仙劇『天官賜福』が始まった。
激しい銅鑼や太鼓、チャルメラの伴奏に合わせ、スクリーンには瑞雲が湧き上がり、天官や雷神、八仙などの神々が次々と登場した。見ていた村人はみんなひざまずき、頭を地につけて神様を拝んだ。この神秘的な儀式を女性は見ることができない。
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「老爺」を振り回し、2つの木片を投げて吉兆を占う |
儀式が終わり、「老爺」は別の窰洞の「神壇」に安置され、正式に皮影戯が始まった。この日は、唐の太宗李世民(在位627〜649年)の武功を描いた『唐王征西』が上演された。謝さんはスクリーンの後ろに立ち、人形を操りながら、違った役によって節回しを変えて「道情」を歌っていた。
「道情」とは、伝統的な語りや歌の芸能から発展してきた、主に西北地方に伝わった地方の戯曲だ。その高らかで気持ちが奮い立つような歌声の「道情」は、生き生きと物語を引き立てている。助手の張さんは、銅鑼や太鼓と、チャルメラ、四弦琴の演奏、皇女と大臣の歌を担当していた。もう一人の孫さんも張さんと同じように楽器を奏で、中年以上の男性の「老生」や大臣、八仙の歌を受け持っていた。3人とも、多芸多才で、芝居の山場を何度も作り、客はうっとりした表情で皮影戯に見入っていた。
皮で作る影絵人形
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赤い布で覆われた四角の腰掛け。これは、廟神の「老爺」の化身である |
人形製作の手工芸人、王勤政さんを県城に訪ねた。今年52歳の王さんは、20歳から影絵人形を作り始め、農業をしながら製作を続けてきた。
1990年代ごろから、県城の町を訪れ、記念品として影絵人形を買う人が多くなった。そこで王さん夫婦は町に部屋を借り、影絵人形を専門に作り始めた。2人は切る作業と色付けを分担し、今では息子さん夫婦も同じように分業している。そして多くの弟子を受け入れた。現在、王勤政さんの仕事場では、1年に4000以上の影絵人形が作られ、北京や蘭州、上海などで販売されている。
影絵人形の製作はとても複雑だ。皮を選び、なめし、下絵を写して切り抜き、色付けし、水分を出して伸ばし、胴体に首や腕などをつなぎ合わせて組み立てるという、多くの工程がある。
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「馬夫」は「老爺」や劇中の様々な神や仙人たちとともに踊り狂う |
材料は黒毛の雄牛がいちばんよく、皮の質によって影絵人形のどの部分を作るかを決める。例えば、牛のお腹の皮はとても良質でやわらかいので、人形の頭を作るにはとても適しているという。
皮はまず乾かし、3カ月間水に浸してやわらかく揉んできれいにし、なめして平らに伸ばし乾かしたあと、小さく切りそろえる。
人形の図案は、鉄筆を使って皮に写す。切り抜きが一番大切で、主に切り出しやのみで切り取るが、その技法はとても多い。切る際は、複雑なところから始め、内から外へと切り抜いていく。
人形は、頭、肩から肘、肘から手、胴体など10の部分に分かれている。各部分を切り終えると、細い牛皮の紐で各部分をつなぎ、さらに牛皮の紐で、人形の首のところに頭を差すための指し込み口を作る。最後に、首、胸、両手を操るための棒をつけて、影絵人形は完成する。
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切り抜くときには、刀を動かさず皮を動かして切る。切る場所に応じて刀を変える。 |
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黒、赤、黄、青、緑が主の色で、透明水彩で、皮の両面に色をつける |
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以前は、熱くした2つのレンガに皮を挟んでいたが、今はアイロンがあるのでとても便利になった。その上に桐油や漆を塗ると透明な感じを出、丈夫にもなる |
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頭、胴など10に分けた部分に穴を開け、つなぎ合わせる |
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全ての関節は、糸や輪っかでつなぐ。できあがった人形は、命を吹き込まれたように見える |
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人形の頭は指し込み口に挿し棒をつけると、今にも動き出しそうだ |
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保護が始まった皮影戯
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王勤政さんによると、人形製作はまず皮を湿った布で覆って柔らかくし、鉄筆で図案を写す |
環県の皮影戯は、300年以上の歴史を持つ。ほかのところに比べると、この地の影絵人形の造形や製作方法、使われる楽器や音楽はとても特徴的だ。
そしてとても貴重なのは、環県にはまだ、皮影戯が生き続けられる生活空間が保たれていることである。皮影戯は、その土地の縁日や冠婚葬祭、民俗行事、人形芝居、民謡、伝説などと切っても切り離せないほど密接に関係している。
2003年、環県の皮影戯は、10件の国家級民族民間文化保護プロジェクトの1つとして中国政府から指定され、環県には、「環県道情影絵研究センター」が創立された。
同センターに勤める32歳の道金平さんは、同僚と調査グループを作り、1万キロにおよぶ全県19の郷と鎮の42の村を走破し、47の皮影戯一座と、282人の芸人に対して全面調査を行った。そして県内の皮影戯一座、人形遣いの芸人、人形製作者や皮影戯活動の主な関係者の名簿を作成し、さらに皮影戯一座の分布図と芸人の伝承図を作った。現在、新しく建てられた影絵博物館には、すばらしい影絵人形と、関連資料が展示されている。また同センターが編集、出版した『道情音楽鑑賞』や『皮影鑑賞及手工制作』は、地元の小中学生が学ぶ郷土教材として使われている。
今年、環県では、皮影戯の芸術祭が行われる。道金平さんもその準備に追われる毎日だ。