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宋慶齢旧居の前庭にある槐の樹 |
北京中心部の宋慶齢旧居は清代に親王の邸宅として建てられ、庭園が非常によく保存されている。前庭に大きな「鳳凰国槐」と呼ばれる槐の樹が誇らしげに立っている。孫中山(孫文)夫人、宋慶齢はよく、この長く伸びた枝の下でくつろいでいた。庭の中央には2本の海棠の樹があり、春には目を見張るばかりの満開となる。
庭はまた鳩の大群の住まいでもあることが、その姿を見なくてもわかる。北京周辺の空中で鳩の奏でる不気味な高圧電線のような響きは、他に類を見ない。この「天空の特別管弦楽」は、尾羽根の部分に笛(「鴿哨」と呼ばれる。鳩の形をした日本の鳩笛とは異なる――編集部注)を仕込まれた鳩の群れが発するものだと知らない限り、ほとんどの人はこの独特の響きがどこから来るのかわからない。これはとりわけ北京の人々が好む習慣である。
数世紀の間に、鳩を飼育する――売買・交換し、仕込み、鳩笛を付け、競い合う――というのは、ご隠居たちの高尚な趣味として発展してきた。しかし、宋慶齢までが鳩マニアであったとは! 自分の飼っている群れに餌を与えている写真まである。
文化大革命の後、あるいは平屋住宅が高層集合住宅にとって代わられ消滅した後、鳩の飼育は絶えたはずだと考える人がいるかもしれない。しかし、答えはノーである。事実として復活している。
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鳩笛作りの名人、王学章さん |
鄭戦軍さん(51歳)は、ふだんは宋慶齢邸の平凡な雑務係だが、こと鳩になると熱烈かつ博学な通となる。北京が荒廃を極めた1960年代、食物は欠乏し、鳩の飼育は「ブルジョワ趣味」として眉をひそめられた時代にさえ、鄭さんは自分の食を分け与え、米や草を探し回って数羽の鳩を生き延びさせた。
鄭さんは私を鳩小屋に案内し、くちばし、額、尾、羽毛などによって、一羽一羽を識別した。さらに「この鼻にあたる部分の羽毛は『鳳』といって、血筋のよさを示しています」などと教えてくれた。全部で12種類の鳩は、それぞれ独特の色合いを持ち愛称がつけられていた。「雪梅」は白い胴体に赤茶色の頭部、「墨環」は首の周りに黒い羽毛の環を持っている。全身真っ黒の鳩は「カラス」と呼ばれていた。
鄭さんの鳩はまた合奏しながら飛行する。ポケットから3種類の鳩笛を取り出すと、彼はそれをどのようにして尾の6番目の羽毛に取り付けるかを実演して見せた。それから針金を編んだ小屋から鳩を引き出し、そのうちの60羽を空中に放ち、赤い布を先端に付けた竹ざおを振り回して飛び続けさせた。「飛ぶ前には餌を与えません。餌を与えてしまうと怠け者は飛び立とうとしませんから」と彼は言った。鳩たちが渦を巻いて上空に昇ると鄭さんの管弦楽が生き生きと響きわたった。
鳩を呼び戻すには、屋根に残しておいた数羽の仲間を飛び立たせる。こうして鳩たちに帰宅の頃合を知らせるのである。鳩の群れは数回旋回して、黄色1枚と緑4枚の瓦でできた特製の着陸地点を確かめてから着陸する。滑走路を探す飛行機と似ていて、高層アパートから突き出た、にわか作りの鳩小屋でさえも、群れにとって見分けのつきやすい目印を持っている。
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鳩の尾の部分に笛を仕込む |
郊外の七家庄という所に鳩笛作りの名人、王学章さん(52歳)が住んでいる。私は彼の仕事場を訪ねた。「笛は基本的に2種類あります。1種は竹製の『哨』、もう1種は小さなヒョウタンで作る丸い『葫芦』です」と王さんは説明した。「竹の軸が長ければピッチは高くなります。ヒョウタンは深い音色を出します。音色の違いは穴のサイズと数の違いで生まれ、また穴の数によってあらゆる和音が生まれます」
その道30年の技の証であるタコのできた手で、王さんはナイフを取り上げ、少し湾曲した竹笛にスリットを入れた。「普通の笛なら一日で数個作れます。しかし、3本のスリットを入れた葫芦を作るには一週間から10日かかります」
彼は小さなヒョウタンを手にとり、削り、ほとんど透明になるまで磨いた。次いで炉の上で乾かし、薄くて軽い笛の基部を作った。ハーモニカとほぼ同じく、王さんの最高傑作は15の音色を出す。「しかし出来のいい作品は、手本として手放しません」。王さんは15歳のときに初めて作った笛と、その傑作とを比較しながら言った。鳩の群れが滑空するとき王さんは耳を澄まして、音色の異なる笛が深く調和して「天空の管弦楽」となるのを聞いている。(訳・小池晴子) 五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より
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