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銭海澎=文・写真 |
この6月25日、歴史の舞台となった葫蘆島に、中日の関係者約400人が集まり、この「大遣返(大送還)」を記念し、中日関係を展望するフォーラムを開催した。 これを機会に当時、葫蘆島から引き揚げた多くの日本人もこの地を再訪した。葫蘆島の海辺にたたずめば、60年前、ここから日本に向け出航して行った引き揚げ船の汽笛の音がよみがえってくる、と感じた人も多かったようだ。 歴史を正視して 未来を拓く フォーラムには、記録映画『葫蘆島大遣返――日本人難民105万引き揚げの記録』を制作した故国弘雄威さんの妻、佑子さんも参加して発言した。雄威さんと佑子さんは15歳のとき、いっしょに葫蘆島から帰国したのだった。
長野県松本市には、葫蘆島から引き揚げた人たちを中心に「信州葫蘆島友の会」がつくられている。「友の会」の穂刈甲子男会長は「両国関係を発展させるには、青少年に期待したい」として、現在、「友の会」が資金援助して、吉林省梨樹県に、近代的な新しい小学校を創設したり、長野県の開智小学校と葫蘆島実験小学校が毎年、相互訪問を続けていることなどを紹介した。 中国政府を代表して発言した唐家隸国務委員は「歴史を鑑とし、未来に目を向ける」という中国の立場を強調し、「私たちはすでに起こってしまった不幸な歴史を変えることはできませんが、未来に対して責任を持たなければなりません」と指摘した。 日本から参加した村山富市元首相は「私たちは謙虚に、歴史の事実を受け入れ、深い反省と心からのお詫びをもう一度示さなければなりません」と述べるとともに、「私は『政冷経熱』といわれる現在の日中関係を非常に憂慮しています。日本政府が一衣帯水の日中両国関係や日本とアジアの隣国との関係にまじめに対応するよう望んでいます」と演説し、大きな拍手を浴びた。 葫蘆島の記憶をみんなのものに
フォーラム終了後、葫蘆島の港にほど近い西山に造られる平和公園(中国語名「和平公園」)の定礎式が挙行された。唐国務委員や村山元首相が鍬を入れ、葫蘆島から引き揚げた人たちもそれぞれの思いを込めて土を盛った。 記録映画『葫蘆島大遣返』の冒頭は、国弘さんが日本の街頭で「葫蘆島を聞いたことがありますか」と多くの人に尋ねるが、日本の若者は誰一人、葫蘆島を知る者がいなかったというシーンから始まる。葫蘆島の記憶は、日本ではいまや消え去ろうとしている。 そこで日本の侵略の歴史を実物で示し、葫蘆島から多くの日本人が無事に祖国に帰ることができたことを次の世代に語り継ぐために、平和公園が造られることになった。 平和公園は、かつて日本軍が葫蘆島に建設した三基の巨大な原油貯蔵タンクがいまも残っているのを利用し、葫蘆島市が約6000万元を投じて、ここに二つの資料館とレジャー施設を造る。資料館には、日本の侵略や「大遣返」の資料と在留日本人の帰国を助けた中国の人々の善意溢れる行為が展示されることになっている。 公園の面積は約10万平方メートル。平和広場や引き揚げの様子を再現した彫刻や塑像が造られ、地元の人々の憩いの場にもなるという。
この定礎式に、緑色の中国人民解放軍の軍服姿で、胸にたくさんの軍功章をつけた一人の日本の老人がいた。長野県安曇野市から来た幅敬信さん(82歳)である。彼は17歳のころ中国に来たが、日本の敗戦後の1946年に解放軍第四野戦軍に参加し、7年間、軍務に就いて小隊長になり、東北、華北の解放戦役で、多くの軍功を立てた。 日本の敗戦後の混乱の中で彼は、多くの悲劇を見てきた。「だから戦争をしてはいけない。平和が大切なのです」と彼は言うのだった。
「私たち中日両国人民は、手を携えてともに平和への旅に赴こう、手を携えてともに美しい未来を築こう」――葫蘆島に集った中日両国の人々は、『葫蘆島平和宣言』を発表して、平和への誓いを新たにした。 |
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