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横堀 克己=文 雅子=写真提供 |
『昴』や『いい日旅立ち』『群青』など多数のヒット曲で知られる谷村新司さんは、2半前から上海で、音楽を学ぶ中国の若者たちを育てている。そのために、これまで4000回も続けてきたコンサート・ツアーをやめ、月に1週間、上海の音楽学院(大学)に来て、教授として教壇に立つ。 その谷村さんに育てられた音大生たちが中心となって、日本の若い音楽家と同じステージで競演する「第一回中日青少年国際交流音楽会 in 上海・2006」が、6月10日、上海・蘭心大劇院で催された。「国を越え、言葉を越え、音楽を通じて触れ合うことが大切」という谷村さんの思いが、花開いた音楽会になった。 谷村さんはどうしてこれほどまでに中国の若者たちに心を寄せるのか。音楽会の翌日、上海興国賓館で彼は、静かな口調で、インタビューに答えた。 教えるのは「心」と礼節 上海音楽学院は、1927年に思想家の蔡元培らによって創設された国立の音楽の最高学府。学院長は楊立青氏、教授、助教授は104人、学生は1200余人。付属の小中高校があり、一貫教育で音楽家を育成している。 ――どうして上海音楽学院の教授になったのですか。 谷村新司さん(以下、谷村と略称) 音楽学院の教授に正式に任命されたのは2004年3月です。音楽学院としては初めての外国人教授となりました。 その前に、楊院長からオファーがあり、「どうして日本人の自分に」と思って学院を訪ねたのです。
楊院長は「谷村さんは音楽にとって一番大切なものは何だと考えていらっしゃいますか」と質問しました。私は「技術も理論も大切だけれども、一番大切なのは『心』だと思います」と答えました。 「その通りだと思う。それを学生たちに教えられるのはあなたしかいない。それであなたに教授をお願いしました」と楊院長は言うのでした。「そういうことなら、もうお受けしなければいけない」と私は思いました。 上海音楽学院は、伝統的な民族音楽とクラシック音楽を教えてきたが、ポップスや現代音楽を教えるコースはなかった。谷村さんは音楽工程部の現代音楽部門を任された。授業には時に百人もの学生が聴講に来るが、コンサートなど目的を設定して、希望者による特別クラスを編成している。 ――授業では、何を教えるのでしょうか。 谷村 技術的なことは、一切、教えていません。彼らは付属高校を出た時点で、すでに技術や理論は十分持っているのです。私の教えるのは「心」です。そこを多分、誰も教えてくれなかったと思います。彼らは「音楽の目的」や「音楽の力」を聞くチャンスがないままで来ている。 先生自身が、舞台に立って実践していなければ伝えられないことがいっぱいあるのです。音楽学院には、バイオリニストとして舞台でパフォーマンスをする先生はいらっしゃるけれど、シンガーとして、ステージを創っていく方はいらっしゃらないようです。 ――それを、どうやって教えるのですか。
谷村 最初の授業で、「詩を書いたことがある人は?」と問いかけたら、40人のクラスの中で2人しかいなかったのです。そこで「自分で自分の言葉を書く」という訓練からスタートしました。彼らはかなりのスピードで伸びてきました。中には感心するようなものがありますね。 谷村さんの授業は、基本的に日本語で行われる。それを通訳したり、学生たちの書いた詩を直訳しているのは、史鈬諾君(通称ピンノ君)である。彼は上海生まれの25歳。1999年に、日本で働いている母を頼って日本に行き、東京の音楽の専門学校で音楽を学んだ。彼は谷村さんのスタッフとして働きながら、学生たちとともに音楽を勉強している。 ――言葉の壁を感じたことはありますか。 谷村 授業で、音が出てきたら、壁は一発で消えてしまう。音の中にいると、言葉はあまり関係ないのです。第一回の中日青少年国際交流音楽会でも、中国と日本の若い人たちの音楽は、何もかわりません。 ――このコンサートで学生たちに学ばせたかったのは?
谷村 学生たちはまだ、未熟なところがいっぱいあります。技術とか理論は頭の中にあっても、コンサートを創るために協力してくれたスタッフや先輩たちに、ちゃんと挨拶やお礼ができるか、そういう礼節や当たり前のことができるかどうかが大切です。 コンサートが終わった瞬間に、学生を全員集めて、コンサートに来てくださった方々や手伝ってくださった皆さんに「ちゃんとお礼をして来なさい」と言いました。学生たちは全員で「ありがとうございました」と言いに行きました。そういうことが言われなくともできるようにしたいのです。 困難乗り越え、広がる交流 第一回の中日青少年国際交流音楽会には、上海の大学生や日本人学校の生徒ら、中日の若い人たちが数百人集まった。しかし、初めてのコンサートで、しかも手作りのため、準備にはさまざまな困難があった。開会直前まで行われたリハーサルでは、ジーパン姿の谷村さん自身が、学生たちの使う譜面台や椅子を並べていた。彼は2日間、寝ていなかった。 ――準備では、何が大変でしたか。 谷村 日本からクルーがやってきてセットアップしてしまえば、いろいろ問題はあっても、リハーサルまではそれほど問題なく仕上がるのですけれど、学生や学校が主体的にやらないとダメなのです。これまでは、日本から持ち込んできたものを中国で見せることしかしてこなかった。それでもみんな、「大変だ」と言うけれど、それほど大変なことではないんです。中国の人たちに主導権を預けて、それで創り上げてゆくのが大変なのです。 ――具体的には? 谷村 2カ月前に打ち合わせをしていたことが突然できなくなるとか、こっちでやってしまった方が楽だと思うこともいっぱいあったけれど、それを中国の人たちにやってもらって、「ステージの幕が開くまでがいかに大変か」ということを学んでほしい、そこも教育だと思うのです。
リハーサルのとき出演する学生が「試験があるので」と居なかったり、弦楽器の奏者が居なかったり……。大陸の人たちの時間の流れは、やはりゆっくりしているので、時間に遅れるということを、あまり気にしていないところもあるのです。 それでもステージが始まってしまえば、後は流れてゆくので、始まった直後、楽屋で一瞬、オチてしまいましたよ(笑い)。 ステージには、音楽学院の卒業生のプロの歌手が次々に登場した。日本からは、琴と尺八を演奏する「ZAN」や中国語を勉強中の歌手の「Siori」が熱演した。有名な歌手、蒋大為さんも応援に駆けつけ、『桃の花が満開のところで』を歌った。 これに応えて谷村さんも『いい日旅立ち』を歌い、盛んな拍手を浴びた。さらに谷村さんの教え子たち12人が、それぞれ自分たちで作詞、作曲した歌を歌い、最後に、中日国交正常化30周年を記念して谷村さんが作詞、作曲した『宝石心』を全員で歌った。 ――ステージに点数を付けたら何点ですか。
谷村 ステージとしては百点満点。しかし、学生たちはステージ以外のところで学ぶべきものは多かった。例えば、一回のステージは2時間が限度。でも学生たちは、あれも入れたい、これも入れたいで、結局、3時間を超えてしまった。「お客様にいいコンサートだったね」と言ってもらえるかどうかがカギだということを学んだと思う。 ――これから、このステージをどう発展させたいのですか。 谷村 いろいろな形があるとは思いますが、第一回は上海からスタートし、北京で、また東京でというように、いろいろなところを回って行けたらよいなと思うのです。日本と中国からスタートしましたが、他のアジアにもどんどん広げていければよいと思います。理想的には年に一回と、思っています。 アジアから平和のメッセージを 谷村さんの海外コンサートは1980年のバンコク公演から始まる。翌81年8月、北京の工人体育館で2日間、「ハンド・イン・ハンド北京」《中日共同コンサート交流》が開催された。中国の歴史で、ポップスがオフィシャルの場に登場したのは、これが初めてであった。 ――それ以前から、中国やアジアとのつながりを感じていましたか。 谷村 そういう思いはありましたね。なにか自分が作るメロディーって、自然に作ると大陸メロディーになっているんですね。すごく不思議だなぁという思いがあって、それをたどって行くと、なにかあるんだなと思います。 前世のその前ぐらい、グルグル生まれかわってくるときに、たぶん中国にいたな、という思いがあります。北京の故宮の中にいて、歴史家だったということがわかりました。フィーリングで(笑い)。 谷村さんは1984年、韓国のチョー・ヨンピル、香港のアラン・タムとともに「PAX MUSICA(パックス ムジカ)」を結成する。 ――「PAX MUSICA」を結成した狙いは? 谷村 アジアから音楽で、世界に平和をメッセージしていこう、アジアの国々を回って、音楽をする人同士がどんどんつながって、次の世代が発表できる場を作っていこうということでスタートしたのです。そして香港、韓国、シンガポール、バンコク、ホーチミンなどで公演してきました。これが一回途切れて、2004年に、最初にスタートした3人で「PAX MUSICA SUPER 2004 宝石心」として、上海の大舞台で公演しました。そのときに、中国のトップ・アイドルだった毛寧をそこに出したのです。 さらに2005年には、愛知万博で「アジアPOPフェスティバルPAX MUSICA NEXT」として、アジアの若いアーチストを集めて公演したのです。「NEXT」には、次の世代の人たちへの思いが込められています。これには唯一のアマチュアとして、上海音楽学院からも20人が参加しました。 愛知万博に参加した上海音楽学院2年生の華芳さんは、谷村さんの教え子。「大多数の日本の人々は、中国に対して友好的だということがわかりました」という。 ――どうしてアジアだったのですか。 谷村 「PAX MUSICA」を結成した当時は、日本人はアジアに誰も振り向いていなかった時代です。私たちは「私たちはアジア人なのだから、アジアをちゃんとやらないと」と話し合っていました。「自分たちがアジア人であるという認識を忘れた日本人は、行き先が見えなくなるね」という考えから、「PAX MUSICA」の最初の公演を、後楽園スタジアムで行ったのです。 谷村さんの『昴』は、『星』という題でさまざまな中国語に訳され、中国大陸や香港で歌われている。その一つは、「目を閉じて何も見えず 悲しくて目を開ければ」を「閉起双眼心中感覚清静 再張開眼睛怕観望前程」と訳している。 ――そしてアジア各地の公演で、何を感じましたか。 谷村 毎回、お金では買えない経験をすることができました。自分たちのものだけで創り上げてしまうことをやめよう、というのがテーマでした。だから現地の人たちと自分たちのクルーとがいっしょに、舞台づくりから始まるので、最初はみんなブチ切れてしまうのです(笑い)。 仕込みの時間は朝9時、アルバイト20人が機材搬入に来ることになっているのに、誰も来ない。一時間くらい遅れてアルバイトがみんなニコニコしながら、「ごめんなさい」もなくやって来る……こんなことは当たり前のように起こります。だからうちのスタッフは、みんないつも笑顔でいるよう心がけています。 中国の人はプライドが高いので、最初はみんな「できる」と言うのです。しかし、時間が迫って、やはりできないということがわかったときも、こちらがガタガタしてしまったらダメで、やはり中国側に「どうにかしてくれ」と預けて解決してもらうのがいい。こういう点を、中国の人たちはもっと勉強してほしいと思います。 音楽に国境はない ――現在、中国と日本の関係は、難しい状況にありますが、こちらで仕事をしていて、何か影響はありますか。 谷村 まったくありません。それは政治の問題ですから。実際に交流している人は、政治がどういう状況であろうと、どの国にも、思いのある人はいっぱいいて、そういう人同士はちゃんとつながってやっていけると思っていますから。 「音楽にナショナリティーがあるのかい」と言いたい。音楽やっている学生たちは、ナチュラルにインターナショナルです。いろいろな国の人が集まって、音楽という共通のものをやっていることが、本当はかなり、政治よりも高いレベルにあるということに、気づいてほしいと思うのです。音楽では、お互いに決めたスコア(楽譜)で、協力して音を創ってゆくので、政治ほどは大変ではありません。 ――二十数年、日本人のアジアに対する見方は変わってきたでしょうか。 谷村 やはり日本の経済がバブルで破綻して、やっとアジアが頭の片隅に入ってきたようです。アジアに駐在して、アジアを工場として考えているビジネスの方がたくさんいます。また同じ人間として、アジアの人たちと付き合っていこうという人もけっこう増えていますね。長く、そういう活動を続けている人もいます。 ――これからどうしますか。 谷村 上海音楽学院の教授の期限はないのです。だから学生たちが、僕の教えたことを、僕に代わって軸となって動き出してくれたら、自分のコンサート・ツアーができるかな、と思っています。 しかし当分は、中国と日本を往復する生活になりそうです。多分、あと何年かで、国という意識はだんだん薄れるのではないでしょうか。僕は日本と中国の真ん中にいるから、両方が見えるのです。現場を知らないで、発言だけする人たちがいる。そういう人のコメントは、やはりずれているケースが多い。それが活字になって、正しいと思ってしまう。だから「自分の目で確かめるのがいいのでは」と、僕はいつも言っているのです。 |
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