私の拙文が初めて本になったのは、1987年に東京の東方書店から出版された『わたしの北京風物誌』である。作家の陳舜臣氏はこの本に、序を書いてくださった。
同じ台湾出身という同郷のよしみからだろうか、陳氏はなにかと私に目を掛けてくださっている。私に読ませたい陳氏の本が出版されると、サインを添えて、人に託して送ってきてくれる。
本もさることながら、その扉のページに書かれた見事な、柔らかい筆致の毛筆のサインに、いつも見とれる。眼福である。
ところがだ。1997年に送られてきた陳氏の『中国随筆』(PHP研究所)の扉のページのサインを見て、私は愕然とした。まず毛筆ではなく、ボールペンのサイン、しかもその一字一字は、一目見ても、手の不自由な人が一画一画、押さえるようにペンを動かして書きあげたことがわかる硬い筆跡だった。裏のページにも、力を入れて書いた跡がはっきりと残っていた。
どうしたのだろう。答えは、その年の6月3日の『朝日新聞』に載った陳舜臣氏のエッセー「朝刊小説『チンギス・ハーンの一族』を終えて」を見て、はっきりした。
それによると、陳氏はこの小説の取材旅行から帰って間もなく、脳内出血で倒れ、一カ月ほど意識不明だったそうだ。その後も右半身が麻痺していたので、左手で書く練習もしたとのこと。陳氏のエッセーから、ちょっと引用してみよう。
「一昨年(1995年)の4月から連載がはじまり、最初の二十数回までの原稿は左手書きである。働きにくい右手も、無理に使わなければ機能の回復がおくれるので、左手で支えて右手で書くことにした。『チンギス・ハーンの一族』の原稿2289枚のうち、2200枚以上はこうして書かれた」
このエッセーを読んだ私には、陳氏が『中国随想』の扉のページに不自由な手で記してくれた数文字が、かけがえもない貴重なものに感じられた。私は、本棚から『中国随想』を取りだし、その扉のページの数文字を指先でゆっくりとなぞりながら、陳氏の健康を祈った。その一画一画、一字一字に、後輩に寄せる陳氏の暖かい心を感じ、胸が熱くなるのだった。
あれから数年。2003年11月3日の『朝日新聞』に「六甲随想」というタイトルの陳舜臣氏のエッセーが載っていた。毛筆のタイトルの下には「(自署、題字も)」と記されている。昔のままの陳氏の懐かしい、柔らかい筆の運びだ。もう、すっかりお元気になられたのだろう。私はとても嬉しかった。
早速、このエッセーを切り抜いて『中国随想』の最後のページに貼った。そして、扉のページのあの不自由な手で書かれたサインと見くらべ、「本当によかったなあ」と心から思うのだった。
――陳舜臣氏の七言律詩「澄懐」の日本語訳――
『人民中国』八月号の「あの人 あの頃 あの話」で、陳舜臣氏作ならびに書の詩「澄懐」を載せたが、以下、その中国語原文、陳氏自身による日本語訳と大意を紹介する。この詩は、陳氏が還暦を迎えて作ったものだ。
澄 懐
澄懐默稿数離憂 華甲不甘章句囚
天外孤蓬猶挙踵 欄中老驥尚昂頭
胸阡末倦カ餘悸 脳底殘筋耐激流
溌墨江湖呵凍筆 展箋編録百春秋
澄 懐(ちょうかい)
懐(おも)いを澄(きよ)めて黙稿(もつこう)すれば数(しばしば)憂(ゆう)に離(かか)る
華甲、章句(しょうく)の囚(しゅう)に甘(あま)んぜず
天外(てんがい)の孤蓬(こほう)猶(なお)踵(かかと)を挙(あ)げ
欄中(らんちゅう)の老驥(ろうき)尚(な)お頭をミ(あ)ぐ
胸間(きょうかん)の薄膜(はくまく)は余悸(よき)を存(そん)し
脳底(のうてい)の残筋(ざんきん)は激流に耐(た)う
墨(すみ)を江湖(こうこ)に?(そそ)ぎ凍筆(とうひつ)を呵(か)し
箋(せん)を展(の)べて編録(へんろく)せん百の春秋(しゅんじゅう)
大意:
こころをきよめて稿を練ると、しばしばこれでよいのか、と、不安になる。六十になったが、文章の字句の奴隷にだけはなりたくない。
遠くまで飛ばされた一本の根なし草になっても、かかとが地にふれるかぎり、高く伸びあがって、希望を失うまい。柵のなかの老いたる名馬も、曹操の詩に「老驥(ろうき)は櫪(うまや)に伏すも志は千里に在り」というように、ミ然としているものだ。わが胸の薄い膜にまだ残(のこ)りのときめきがあり、わが脳がまだはげしい感情の流れに耐えうるうちに、さあ、この人の世の舞台に墨をふりかけ、筆が凍ればそれに息を吹きかけ、原稿用紙をひろげ、この百年の歴史をかきとめよう。
|