王さん母子の郷里は、乾燥していて雨が少なく、飲み水にも困る貧しい地域だ。王さんは刺繍が得意で、5色の糸を使って人物や敦煌の飛天などを見事に縫い上げる。地元では刺繍や影絵人形、書画など民間の手工芸品を売る小さな店を経営しており、一家は主にこの店で生計をたてていた。子どもは、高校生の長女、中学3年生の長男、そして末っ子のテイちゃんの3人。夫は教師をしている。
2005年の冬休み、王さんの夫は、長女とテイちゃんを連れて北京を訪れた。絵を書くのが好きな長女に絵の先生を探すのと、テイちゃんの見聞を広げることが目的だった。 テイちゃんは幼稚園で電子オルガンを習っていた。そこで北京にいる間、あるピアノ学校に行かせ、先生にピアノを教わった。テイちゃんの上達はとても速く、本人は北京に残って専門にピアノを勉強したいと願った。 再三考慮したあげく、王さん夫妻はテイちゃんの願いを受け入れることにした。そして音楽学院の先生に指導を頼み、音楽の名門校・中国音楽学院付属中学校を受験する準備を始めた。 このときから、王さん一家の生活は変わった。テイちゃんはまだ小さいので、生活の面でもピアノを勉強する面でも、大人が面倒をみなければならない。教師である夫の収入はあまり多くないが、長期間は休めない。そのため、王さんが店を辞め、テイちゃんに付き添って北京にやってくるしかなかった。
王さんが抜けたことにより、店の収入は激減したうえ、一家の支出も大いに増えた。音楽学校を受けるには、いいピアノが必要だ。その資金を捻出するため、家を売り、夫と子ども2人は夫の実家に身を寄せた。そして、店の年収の3分の2に相当する1万9700元(1元は約14円)で中古のヤマハのピアノを購入。さらに1週間1時間半のレッスン料は500元、1年間で2万4000元かかる。母子2人の北京での住居費、食費も必要だし、教材費も馬鹿にならない。節約に節約を重ねたが、この数年で、王さんは銀行から十数万元を借りた。 子どもにピアノを勉強させるための支出は、王さんの想像をはるかに超えていた。始めは、ピアノを勉強させて将来、郷里で教師にでもなれればいいと思っていた。しかし、テイちゃんは音感がよいので、努力すれば来年、音楽学院の付属中学に合格できる可能性があるという北京の先生の言葉を聞き、王さんはもう1年がんばることにした。もしテイちゃんが合格できたら、今度は夫を北京に呼んで付き添わせ、自分は郷里に戻って店を経営して学費を稼ごうと考えている。 子のため? 親のため? 王雪琴さんのような40代の人々は、現在の子どもたちとは大きく異なる子ども時代を送った。 当時の中国はまさに「文革」時期。「文革」によって人々の仕事や生活は大きな影響を受け、子どもの才能や興味、嗜好に眼が向けられることはほとんどなかった。一般的に「音楽」というものは単なる趣味でしかなく、勉強の妨げになるようなことがあってはいけないとされていた。芸術と何の関わりもない家庭では、子どもを芸術家にしようなどと考えることもなかった。 また、一般の家庭は経済的にゆとりがなく、子どもの数も多かったため、一生懸命やりくりして、なんとか生計をたてていた。子どもに楽器を買ってあげたり、芸術に対する興味を育てたりすることは、非常に贅沢なことだったのだ。音楽に興味がある若者たちは、職場の組織や共産主義青年団の活動でしか、アコーディオンやギターなどの楽器を勉強する機会を得られなかった。
改革・開放を経て、中国は市場経済の道を進み始め、社会環境も変化した。学問もあり才能もある一部の人々は、社会の変化にすぐさま適応し、古い考えから真っ先に抜け出して、人々が羨む豊かな生活を送り始めた。芸能人や芸術家はテレビや新聞・雑誌などのメディアを通して名を売り、それによってたくさんの金を稼いだ。こういった現象は、現状を変えようと躍起になっている人々に、多かれ少なかれ影響を与えた。 また、「一人っ子政策」によって子どもの養育負担は軽減され、家庭のすべての希望が子どもの身の上に託されるようになった。特に「文革」世代の親は、自分が実現できなかった夢を子どもに託すため、どの家庭でも教育を非常に重要視し始めた。 その一方、中国の教育設備や人材は不足しており、しかもその機会は平等に与えられていないという矛盾が、徐々に明らかになってきた。巨大な人口を抱えながら、高等教育機関が受け入れられる人数は依然として少なく、大学に合格することは非常に狭き門だった。 1980年代ごろ、大学の学生募集において「芸術特長生」という言葉が現れ始めた。これは、芸術面に優れた受験生に対しては合格ラインを下げるというもの。合格ラインに達する自信がない子どもや親たちはこれをチャンスとみた。全国の幼稚園、小学校、中学校に各種の芸術クラスが設置され、ランク別の試験も増えた。しかし一方で、子どもの気持ちや興味、現実を考えずに、「芸術特長生」を目指すよう強制するケースも出てきた。 芸術家も夢じゃない
「芸術特長生」の流行から、「陪読」という新しい言葉が生まれた。親が子どもと一緒に都市に出てきて身の回りの世話をし、練習や勉強に付き添うことを指す。 有名な芸術系大学がある都市には、全国各地から入学希望の子どもと親が集まる。学校近くの部屋は供給が需要に追いつかないほどだ。親たちが見知らぬ都市に滞在するのは、受験の準備をする子どもの世話をし、練習や勉強を促すため。経済的にゆとりがない場合、適当な仕事を見つけてお金を稼ぐ必要もある。このような「陪読」の人々が集まる場所は「陪読村」と呼ばれるようになった。 「陪読」の数は年々増えている。親の付き添いのもと、子どもが希望の芸術系学校に合格し、そこで学んで、羨望の的である芸術家になることがあるからだ。例えば、海外でも名高い若手ピアニストの郎朗(ラン・ラン)の場合、父親が瀋陽での仕事を辞め、彼に付き添って北京にやってきた。当時の苦しい生活と大きなプレッシャーを、2人は今でも深く心にとどめているという。 親たちは、たとえ自分の子どもが天才ではなくても、正規の教育と訓練を受けさせれば、きっと輝ける未来が開かれると信じている。 遼寧省鞍山市の普通の家庭で生まれ育った陳志錦くんは、章子怡(チャン・ツィイー)を輩出した北京舞踏学院付属中学の4年生で、中国舞踊を専門に学んでいる。4年前に同校の先生が生徒募集のために鞍山市にやってきたときに見出された。父親の陳殿宏さんは、このようなチャンスを得られるなんて非常に幸運だと思ったという。
陳さんは息子の将来について、「志錦は学校の成績も悪くなかったが、今は競争が熾烈なので、将来大学に入学できるかどうか、いい仕事を見つけられるかどうかもわかりません。でも、舞踏学院の付属中学で学べば、大学入試の際に『芸術特長生』として、全国大学統一入試の数学、英語など一般科目の合格ラインが下げられる。舞踊を専攻して、将来舞踊家になってもいい。その後、大学院に入って、舞踊学校の先生になれたらもっといいですね」と話す。 陳さんは今、郷里での仕事を辞め、舞踏学院の近くで10平方メートルもない部屋を借りて暮らしている。毎日息子のために食事を作り、散髪の仕事をして生活費の足しにしている。妻は郷里で美容院を経営しているが、収入の半分は息子の学費と父子の生活費に消えていくそうだ。 一家3人が2つの都市に別れて暮らすようになって、もう3年になる。「あと2年で、息子の大学受験です。今の成績からみると、悪くない結果が得られるんじゃないでしょうか。そのときまで、苦しいのも我慢します」と陳さんは明るく話す。言葉数の少ない志錦くんだが、両親の苦心はよく分かっている。学校では人一倍努力し、今年は学校の代表として、全国桃李杯舞踊コンテストの参加資格を得た。夢は目の前に広がっている。 |
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