白水河の仏像
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白水寺の釈伽立像 |
北京市内の寺院にあった仏像のオリジナルの多くは、消失しているが、仏塔外面や洞窟の壁に、石刻や浅浮き彫りの様式で刻まれた古い仏像は数多く生き残っている。
白水寺には北京最大の石仏像がある。その高さ5.8メートル、房山区の燕山石油化学工場をさらに入った丘の上、梁のない石堂に安置されている、眼を大きく見開いた釈迦立像である。左右に2体の脇侍を従えた3尊像だ。私がそこを訪れた日、燕山石油化学工場を退職した人たちが香を焚き、この景勝指定地でくつろいでいた。お堂の中には、飲料水のビンに挿した造花と生花の両方が供えてあり、線香の煙がお堂の内外に渦巻いていた。
石堂は、外観は完全に四角形だが、内部は、磚石が天井先端までらせん状に積み上げられ、丸天井のようになっていた。仏像の製作年代ははっきりしていない。土地の人々は、少なくとも900歳にはなると信じていた。横の小さな石像はさらに古いだろう、すっかり風化してそれらしい形がわかるだけだった。
私がお堂の中に立っていると、突然一筋の陽光が天窓から射しこんで、まっすぐに仏陀の素朴な掌に落ちて輝いた。私は、この現象は毎日起きるのだろうか、仏像の神聖性を強めるために、建築家がこのように設計したのだろうかと思いを巡らせた。
燕山石油化学工場に30年以上勤めたという張さんが、最近白水河が汚染され、魚が死滅していると嘆いた。私が彼に、この寺の遺物は他にないだろうかと尋ねると、彼は寺院に沿って下を走る鉄道のほうを指さした。高い場所を走る線路まで登っていく石段があった。石段に使われている石のなかには蓮の花を刻んだ古いものがあり、明らかに風化した白水寺から運んできたものであった。近くに転がっている壊れた石碑のかけらには、「古寺」の文字が見えた。ここで発見したもの――四角い石堂内のらせん天井、仏陀の手に集まるきらめく光、あたりに散らばる石片、すべてがこの場所の謎を深めていた。
盗まれた大石仏
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彩色された石仏立像 |
北京圏全域で最も価値ある石の彫刻は、おそらく海淀区車耳営村の山腹にあったものであろう。それは彩色された石仏立像で、高さ1.6メートル、西暦499年の作であった。1995年、村の人に場所を尋ねながら、私は果樹園をいくつか過ぎて、村の背後の丘を登った。最後に道から少しそれた農家を教えられた。
誰もいないようであったので、私は裏庭のほうへぶらぶらと回って行った。そこに風変わりな建物があった。どこかヨーロッパ風の、とんがり屋根の石の小屋だ。裏側の汚れた窓を通して、内部の高い大理石台座の上に立つ、大きな石像の形を辛うじて見ることができた。眼が慣れてくると、立像の美しい彫りと、ひだのある衣装が見えた。
穏やかなアルカイックスマイルを湛えて、広やかな肩をした仏陀立像は一点を凝視していた。片方の手は下を指し、もう片方の手を腰のあたりで曲げていた。光背(二メートルを超す身光、頭部を取り巻く頭光ともに)は、精緻な小仏像と、楽を奏する天女の彫刻で覆われていた。
辺りを眺めていると、管理人の張保英さんが私を見とがめてやって来た。建物について尋ねると、彼女はこう話してくれた。彼女はこの宝物を守る姚家の4代目である。「だから文化大革命中にもこれは無傷だったのです!」彼女は建築家の段其光についても語った。彼はフランスに学び、1927年に帰国してこの仏像を保護する「ケース」を設計した。
1980年代にこの地に来て姚家に嫁いだ張保英さんは、この古い仏像を守るのは自分の勤めだと感じていた。「かつてここには大寺院群がありました」と彼女は説明した。一説によると、ある皇子が「石仏寺」の建立を委託したのだという。当時、北魏が豊かな仏教王国を築き、大同を首都と定めていた。彼らの支配がこの地にまで及んだであろうことは十分に考えられる。
1998年、この仏像が盗まれたという信じられないニュースが届いたとき、私はただ気の毒な張さんと姚家の人々をひたすら思いやった。河北省出身の泥棒たちが、夜間ブルドーザーとトラックでやって来て、仏像を4つに解体し、あっという間に持ち去ったという。仏像は後に発見され、多少破損していたが、復元された。もう果樹園を抜けて遺跡に登っていくことはない。なぜなら石仏は現在、北京石刻博物館に安置されているからだ。残念なのは、村は文化遺産を失い、大石仏は1500年の歳月の後に丘を去らねばならなかったことである。
(訳・小池晴子) 五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より
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