河北省中南部の粛寧県閻カク村に住む閻峻嶺さん(57歳)は、これまでずっと土を相手に生きてきた。苦労を重ねたため、顔にはたくさんのシワが刻まれている。 閻さんの家の前にはコンバインが一台停車している。閻さんはそれに飛び乗ったり降りたりしながら、きびきびと点検を始めた。まもなく、夏の刈り入れが始まるのだ。「私たち農民は刈り入れのことを『開鎌』と言いますが、小麦の刈り入れではとっくに鎌を使わなくなりました」と話す。 かつては鎌と鋤を手にしていた閻さんだが、今では大きなコンバインを自由自在に操る。購入してからもう8年になるが、よく手入れしているので、新品と変わらない。「これは、1998年に親戚の家と共同で購入したものです。7万元しました。この村で一番に購入したのですよ! コストは5、6年で回収できました。毎年、刈り入れ時期になると村人たちに貸し出し、親戚の家と我が家でそれぞれ3000元稼げます」と満足そうだ。
閻カク村には百戸が住み、耕地面積は700ムー(1ムーは約6.67アール)余り。一部で果樹を植えているほか、大部分は小麦やトウモロコシなどの穀物を栽培している。 華北の農村で栽培している冬小麦は、秋に種をまき、翌年の夏に収穫する。夏は雷雨が多いため、農民たちは短期間のうちに小麦を刈り入れたり、トウモロコシを植えたり、除草しなければならない。夏場の刈り入れ、種まき、農作物の管理は「夏の三大忙」と言われており、農民たちがもっとも忙しい時期だ。 しかし近年の刈り入れはずいぶんと楽になった。コンバインの点検を終えた閻さんは、タバコを吸いながら次のように話す。「今はまだ、コンバインを使いたいと予約してくる人はいませんが、あと2、3日にして小麦が実れば、忙しくなることでしょう。村にはコンバインが3台ありますので、一週間程度で村中の刈り入れが終わります。トウモロコシをまくのも機械化され、あっという間に終わります。もう慌てる必要はなくなったのです」 「麦客」の移り変わり
閻峻嶺さんが生産隊(人民公社の基礎となった農村の生産組織)の隊長をやっていた1970年代は、夏の刈り入れの時期になると、早朝4時に起きて小麦を刈り、夜中の11時まで脱穀していた。村中の働き手200人が、毎日、朝早くから夜遅くまで働いても、20日間以上かかったという。 当時はすべての農作業を人の手で行っていた。小麦は鎌で刈ったり手で引っこ抜いたりしたあと、束ねて荷車や天秤棒で脱穀場へ運ぶ。そして家畜に石製のローラーをひかせて脱穀し、干して風選する。もし雷雨になるとの予報があれば、雨が降る前に急いで収穫しなければならない。そうしなければ、これまでの苦労がすべて水の泡となってしまうのだ。 刈り入れ時期になると、周辺の都市の機関や工場、学校などは人手を集めて、農村へ手伝いにやって来た。小学生たちは麦の落穂を拾い、大人たちは麦を刈ったり抜いたりした。4、50歳以上の人なら、灼熱の太陽に焼かれ、麦の芒に刺されたり、鎌で指を切ったりした経験があることだろう。 しかし、都市の人々の助けは知れたもので、本当に役に立ったのは「麦客」と呼ばれる、この時期限定の日雇い労働者たちだった。彼らは人が多いわりに農地が少ない貧困の農村からやって来て、麦の刈り入れを手伝うことで生計を立てていた。毎年、刈り入れ時期になると、「麦客」たちは鎌を腰にさし、着替えを持って、麦が実った場所を渡り歩く。省内のこともあれば、省を出てさらに遠くへ行くこともある。黄金色の麦があるところなら必ず、「麦客」たちの忙しそうな姿があった。
80年代、この渡り鳥のように渡り歩く「麦客」は農村でたいへん喜ばれた。農村では生産請負制の実施によって収穫量が増え、多くの労働力が必要だったからだ。 同じとき、小型の農機具も出現した。刈り取り機が人に代わって麦を刈り取り、脱穀機が家畜に代わって脱穀するようになった。 しかし刈り取った麦は、やはり人の手で束ねて運ばなければならない。脱穀の際はさらに人手が必要だ。麦の束を脱穀機にかけてから脱穀後の麦わらを積むまで、いくつかの作業が連続していて、途中で停止させることはできない。その上、騒音がひどく、ほこりが舞い上がり、むせて息ができないほどだった。依然として大変辛い仕事だったのだ。 90年代ごろになると、コンバインが出現した。刈り入れから脱穀までが一度にできるこの大型機械のおかげで、農民は辛い農作業から解放された。これと同時に、これまでの「麦客」はしだいにその仕事を失った。 これにかわって台頭してきたのが、コンバインを操る新「麦客」だ。新「麦客」は徐々に黄金色になる麦を追いかけて南から北へと移動し、麦の収穫には欠かせない主力となった。各地の政府も彼らに対して、機械のメンテナンス・サービスや高速料金の減免など、さまざまな援助を行った。 変わる農家の暮らし
閻カク村に初めてコンバインがやってきたのは、80年代の終わりだった。これを使えば、タバコを2服しないうちに、3ムーの小麦を刈り取り、脱穀して袋詰めまで終えられる。そこで、村人たちはコンバインを使いたいと列をなし、何日も待たなければならないこともあった。これを見た閻峻嶺さんは、自分でコンバインを購入することに決めた。 コンバインを購入するためには、機械の使い方や働きを覚えるだけでなく、費用も捻出しなければならない。生産請負制が始まって以来、農民の生活にもいくらかゆとりができるようになっていた。 閻カク村には現在、コンバインのほかに、5台の種まき機と2台の耕耘機がある。すべて村人が個人であるいは数人共同で購入したものだ。また、農作物がよく栽培できるようにと、隣近所の農家が共同で作ったモーター付きポンプ井戸も20余りある。「畑起こしから種まき、収穫まで、今ではすべて機械を使っています。農民は解放されました」と閻さんは笑いながら話す。 解放されたのは農作業からだけではない。人々の暮らしにも大きな変化が生じた。 古い土造りの家屋の大部分がレンガ造りの家屋に建て替えられた。村人たちはポンプ井戸を使うようになり、水を運んでくる必要がなくなった。プロパンガスを使う家庭も出てきて、薪を拾いに行かなくてすむようになった。 村の道端には、かつて使っていた製粉用の碾き臼が打ち捨てられていた。小麦を持って製粉所へ行けば、小麦粉と交換してもらえるため、碾き臼は必要なくなったのだという。 水の便がよくなったため、入浴設備を設置した家庭もある。大きなドラム缶に水を溜め、屋根の上に置いて日にあてる。ドラム缶にはシャワーの噴水口につながるパイプが取り付けられていて、日にあたって温まった湯を使ってシャワーが浴びられるというしくみだ。 閻さんによると、現在、村で農業を営んでいるのはほとんどが、4、50歳以上の人だという。村の百人余りの若者は、外へ働きに行っている。彼らは、建築作業員として働いたり、ほかの村の野菜のビニールハウスで働いたり、商売をしている若者もいる。
閻さんの主な仕事は農作業だが、ここ数年、北京の服装工場から半端ものを買ってきて、妻がミシンで簡単な下着を作り、市場で売っている。息子の閻亜席さん(34歳)は中学卒業後、この仕事を手伝っていたが、今は独立して商売を始めた。彼の商売方法は両親とは異なり、省都の石家荘から既製服を仕入れ、近くのいくつかの県で売っている。売れゆきがいいときは、1年で2〜3万元稼ぐという。 閻亜席さんは5日に一度、自宅の農業用トラックで石家荘へ仕入れに行く。小麦の刈り入れ時期に自宅にいる場合は、父親に代わってコンバインを操る。「僕はコンバインで小麦を刈り入れる以外、ほかの農作業はほとんどやったことがありません。僕らの時代は、鎌を使った刈り入れはすでに過去のものだったのです」と笑いながら話す。 古い世代の農民にとってみれば、閻亜席さんのように鎌を使ったことがない若者は幸せに思えるかもしれない。しかし若者たちは、農村部と都市部の格差を気にしている。 閻カク村の村人の娯楽は主に、テレビやトランプ、マージャン、そしておしゃべりだ。「都市に比べると、農村の生活水準は依然として低く、考え方も保守的です。多くの家庭に冷蔵庫やエアコンがありますが、それは嫁をもらうための準備で、電気代の節約のため、普段は基本的に使っていません」と閻亜席さんは言う。 少し蓄えができた閻峻嶺さんは、孫に家を建ててあげたいと考えている。しかし孫はまだ9歳。そこで、「孫が大きくなったころには、建てた家はもう時代遅れになっているかもしれない」と決めかねている。 |
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