「私の家は中国に」――ある残留婦人の物語
                                    譚燕=文

2001年の帰国の際に撮った写真。右から次兄、西野文子、義姉、夫

 湖南省北西に位置する石門県雁池郷は、山々に囲まれ、澄んだ渫水河がゆったりと流れる美しい町だ。中心部から川を2、3キロ遡ったところに、トウチャ族が集まって住む白泥村がある。

 この村に一人の日本人女性が住んでいる。1943年に中国東北部へやって来て、その後半世紀以上、中国で暮らしている西野文子さんだ。時代に翻弄されつつも、大地をしっかり踏みつけて生き、中日友好を願ってやまない彼女の人生を紹介する。(文中敬称略)

中国人の妻に

 西野文子は1927年4月9日、熊本市で生まれた。1943年8月、兄や姉と一緒に中国東北部へやって来て、傀儡政権の「満州国」時期の瀋陽膠東株式会社で、電話交換手として働いた。

 1945年8月15日、日本は無条件降伏をし、日本軍は撤退を始めたが、文子はそれに間に合わなかった。兄や姉との連絡も途絶え、路頭に迷った文子は、タバコを売って生計を立てるしかなかった。苦しい生活に日本への恋しさが追い打ちをかけ、しだいにやつれていった。

母や長兄と一緒に自分のお墓を見に行った(1974年第1回帰国の際に)

 瀋陽に駐屯していた国民党新一軍団重砲大隊の王永佳・中隊長は、そんな文子を目にし、たびたびタバコを買い、こっそりとお金や物品を渡していた。そのうち、思い切って文子を引き取ることにした。

 このことにとても感激した文子は、王を心から尊敬し、好感を抱くようになった。王も美しくて優しく、善良な文子に惹かれた。そして1946年6月、2人は結婚し、1年後には双子が授かった。

 1947年7月、文子は病気で退役した王と、王の故郷である湖南省石門県雁池郷へ帰ることになった。その途中、王は文子に、美しい湖南省石門県で暮らしていくという意味を込めて「石美南」という中国語名を付けた。

 中国の南方の村に初めてやって来た文子は、その美しい風景に酔いしれた。道端の野花を摘んだり、子どもたちと遊んだり、時には日本の歌を口ずさんだ。もちろん困難も少なくはなかった。村へ来たばかりの頃は、現地のトウチャ族の言葉が分からず、その生活にも馴染めなかった……。

 1949年2月、文子に突然災難が降りかかった。2歳の長女が病気で亡くなり、数日後、夫の王も肺病でこの世を去ったのだ。相次いで家族を失った文子は、生活していく気力がなくなった。

 しかしこのとき、純朴で善良なトウチャ族の人々が、温かい手を差し伸べてくれた。彼らは、どんなに苦しくても、方々から米などを寄せ集めて食べさせてくれ、どんなに貧しくても、布を手に入れて新しい服を作ってくれた。彼らの温かい援助のおかげで、文子はしだいに悲しみから抜け出すことができ、和服を脱いで、野菜の栽培や豚の飼育、そして田植えや稲刈りなどを覚えた。

村の暮らしに馴染む

西野文子と夫の覃事先(1960年代)

 1950年、石門県が解放され、人々の暮らしもよくなってきた。救済金を出すために故郷に戻ってきた県民政局の幹部でトウチャ族の覃事先は、文子のことを知り、その境遇を気の毒に思って、よく助けてくれた。そして、二人はしだいに惹かれあうようになり、結婚した。

 文子は覃やその家族の助けもあって、トウチャ族の言葉を覚えた。また、石臼の使い方、豆腐やベーコン、もちの作り方など、トウチャ族の女性がすべき仕事を学んだ。トウチャ族の民謡まで歌えるようになった。

 それだけでなく、男性さえほとんどできないことも練習した。ナタを腰にさして10メートル以上の高い松の木に登り、木から木へと飛び移り、薪にする枝を切り落とすという職人芸である。

  「文化大革命」の期間、紅衛兵が文子を批判しようとしたが、村人たちはあらゆる手を尽くして守ってくれた。

  文子はまた、学問があり、誠実で信用がおけるからと生産大隊の保管係に選ばれた。この仕事を大切に思った文子は、集団の財産をしっかりと管理するという任務を果たすほか、村人たちと一緒に野菜を作ったり、田植えをしたりした。

  1980年代になると、農村では生産請負制が始まった。文子は夫と一緒に家の後ろの山地を請け負い、柑橘園を切り開いた。そして柑橘技術員の資格も取得した。

中国からは離れられない

一家の記念写真。右から3番目が西野文子

 中日国交正常化の実現から2年目、中国の代表団が日本を訪れた。この訪問を知った文子の母親は、一縷の望みをかけて、30年以上離れ離れになっている娘を捜し出して欲しいと代表団に頼んだ。

 多方面の努力を経て、ようやく捜し出された文子は、1974年6月23日、夫と一緒に自分で作った柑橘と湖南省特産の刺繍や綿布を携えて、香港経由で30年ぶりの日本へと向かった。

 福岡空港に降り立った文子は、一目で兄と姉が分かった。30人ほどの親戚が文子を一斉に取り囲み、抱き合って大声で泣いた。その日、『熊本日日新聞』は文子の里帰りについて詳細な報道をし、これは大きな反響を呼んだ。

 文子は地元で開催された歓迎会に参加した後、急いで実家に帰り、日夜恋しく思っていた母親と再会した。母親は涙をこらえ、30年以上離れ離れになっていた娘をじっと見つめながら、「娘がまだ生きているなんて思いもしなかったよ」と言った。まったく音沙汰がなかったため、家族は文子がすでに亡くなったものと考え、お墓も建てていたのだ。

 日本政府はすぐに、取り消されていた文子の国籍を回復した。そして彼女に13万円を贈った。

 文子の実家は熊本県の海辺にある。気候がよく、静かで穏やかな場所だ。親戚はみな、文子が故郷に戻り、夫と一緒に日本で落ち着いた晩年を過ごして欲しいと願った。財産も分け与えた。

 しかし文子は、30年間暮らした美しい中国の農村を離れがたく、最終的に、親戚などが引き留めるのを断って、雁池郷へ戻った。その後も8回日本を訪れ、親戚たちはその度に日本で暮らすよう説得したが、文子は聞き入れなかった。

 「日本での暮らしはあんなに恵まれているのに、本当に帰りたくないの?」という村人の言葉に文子は、「日本は確かにいいけれど、ここには私の家があり、柑橘園があり、息子と嫁、そして孫がいます。それにこんなに長いあいだ一緒に暮らした皆さんを残していけるものですか。日本には親戚がいるので訪ねて行きますが、親戚を訪ねたら、家に戻るのは当たり前でしょう」と答えた。

中学時代のクラスメートとの記念写真。前列左から3番目が西野文子(1974年第1回帰国の際に)

 文子の家は二階建ての日本式の家屋で、大きさは200平方メートルほど。家の前には、日本から戻ったあと夫が作ってくれた大きな庭園がある。そこに日本の桜と枇杷を植え、金魚も飼っている。文子と夫の最大の願いは、中日両国の人々が子々孫々まで友好であることだ。

 「日本政府は、中国を侵略した罪の歴史を忘れてはいけません。私は侵略戦争の証人です。中日両国の人々は永遠に友好であり、永遠に平和であるべきです」と文子は語る。

ささやかな恩返し

 ここ数年、文子は帰国するたびに、中国の改革・開放の成果を日本の人々に紹介している。熊本県のテレビ局に要請されて、50年以上におよぶ中国での経験を語ったことも何度かある。トウチャ族の村人が自分にしてくれたことに話が及ぶと、目にはいつも涙があふれる。

 文子は、朝夕をともにする村人たちのことを忘れたことはなく、私心のない愛をもって、その恩に応えている。

 文子の家から約30キロ離れた所街郷に棟青樹村という村があるが、1996年夏、巨大な竜巻に見舞われた。その村に住む13歳の少女、姜麗麗は家が吹き飛ばされ、母親と弟は家の下敷きになって死んだ。父親も障害を負ったため、姜麗麗は学校をやめざるを得なかった。

 ある日、所街郷中学校に70代の老夫婦がやってきた。彼らは校長に800元を渡し、姜麗麗を引き続き学校に通わせて欲しいと頼んだ。校長は彼らの名前や住所を尋ねたが、決して言おうとはしなかった。しかし一人の教師によって、2人は文子夫婦だと分かった。

故郷への思いから建てた日本式の東屋(撮影・張方軍)

 校長は2人の名前を助学金寄付者リストに載せようとしたが、文子夫婦はそれを断り、姜麗麗やその家族にも明かさないようにと言った。

 また、文子が暮らす白泥村は、雨が降ると道がぬかるんで歩きにくくなり、低学年の児童などはよく転ぶ。そこで文子夫婦は、時間を見つけては子どもたちの登下校に付き添っている。2001年春には、長さ2キロ余り、幅4メートルの道路を作る費用も出した。

 道路の建設中、2人は毎日現場にやって来て、地面にできた穴に石ころを埋めたり、砂や小石を運んできて路面に敷いたりし、これまでの泥道を平らな道路に作り変える手助けをした。

 雁池郷の一帯は、てんかんの発生率が高い地域でもある。このことをずっと気にかけていた文子は、1990年に日本へ行った際、てんかんの薬を見つけてきた。

 これが周辺に伝わり、あるとき、近くの張家界市に住む方嵐という小学校の教師が、文子に電話で助け求めてきた。てんかんを患った方嵐は、いくつかの病院に行ってはみたものの治らず、何度も自殺を考えたという。あいにく、文子はそのとき薬を持っていなかった。そこで、方嵐の連絡先を書きとめ、日本にいた孫娘に買ってもらい、方嵐に郵送した。

  てんかんの患者にもっとも必要なのは精神面のケアだということを知っていた文子は、毎晩、方嵐に電話をかけていたわった。母親のように人生や将来の相談に乗り、命の価値について話し合った。そのかいあって、薬を飲んでしばらくすると、方嵐は健康を取り戻し、数年間別居していた夫も家に帰ってきた。

 このように、文子が助けた患者は少なくない。治療方法を尋ねたり薬を要請したりするものや、感謝の言葉を表したものなど、大きな紙箱には数百通にもおよぶ患者からの手紙が保管してある。

 こんなに献身的に人を助ける目的は何なのかという問いに対して、文子は微笑みながら次のように語る。「誰かが困っていたら、私はすぐに手助けします。人を助けるのは当たり前のことですが、これは私の最大の喜び、幸せでもあるのです。隣近所や村人たちは、家族のようなものです。私の今日の幸せは、彼らがくれたのですから」  (写真提供・西野文子)


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