陶芸家・高振宇さん  「器は使ってこそ美しい」
                                                                             高原=文

白地の表面に水紋を刻む高振宇さん

 NHKの番組『悠久の中国やきもの紀行』(2000年)で日本の陶芸ファンにもなじみが深い陶芸家の高振宇さん。本誌でも2002年4月号の連載「燕京遊記」の中で彼を紹介したことがある。今年42歳の高さんは、「新玉」シリーズという新作を発表。中国美術館で「玉出崑岡(玉は崑岡より出づ)」という作品展を開催した。

 「玉出崑岡」というタイトルにはどんな思いが込められているのか。ここ数年の陶芸に対する考えを聞くため、本人を訪ねた。

「水紋」と「氷紋」

 中国人は古より玉を崇め尊んできた。孔子は、「玉には『十一徳(仁、智、義、礼、楽、忠、信、天、地、徳、道)』あり、君子は玉のような徳を持つべきだ」と言い、人の品行や態度はいずれも温和で寛大でなければならないとした。陶磁器の世界においても、玉のような質感と感触を作り出すことは、中国の陶芸家にとって長年の夢であった。

 「私たちはこれまで、中国の陶磁器について一つ誤解をしていた。それは、景徳鎮の『青花(染付け)』が最も中国らしい陶磁器だと考えていたことだ。実際はそうではない。『青花』はもともと、西アジアの商人たちの注文に応じて製造したもので、イスラムの風格を備えている。後になって、中国人もこれを好むようになったため、しだいに流行したのだ。実のところ、中国の最も代表的な陶磁器は青磁で、青い玉のようにきめ細かく、潤いのある磁器なんだ。中国人の玉に対する愛好を表しているといえる」と高振宇さんは話す。

「水紋」シリーズの大瓶

 1997年、高さんは「水紋」シリーズを創作し始めた。玉に限りなく近づけるという点では、最高の境地に達したと言えよう。

 これらの磁器はほとんどが青か白で、不純物は少しも混じっていない。形もシンプルで、全体的に丸いものが多い。また、非常に薄く、吹いたり弾いたりしたら壊れそうだ。焼成後、光の下で見ると透明感がある。

 高さんはこの薄く透き通った磁器に繊細な水紋を刻んだ。「水紋」シリーズは、専門家や一般の人々から好評を博した。

 しかししばらくすると、高さんはこの作品に嫌気がさした。水紋の彫刻や薄く制作することは、慣れれば慣れるほど上手になり、完璧になったが、その完璧さから「自分の手はまるで熟練した機械のようだ」と思うようになったからだ。

「水紋」シリーズ。「新玉」シリーズとも呼ばれる(写真・楊振生)

 そこで、新しい試みを始め、2006年に「玉出崑岡」というテーマの作品を発表した。「水紋」に対してこのシリーズは「氷紋」と呼ばれる。表面が荒く切り削られ、氷河のような鋭さを感じさせるためである。

 質感が荒く、形も鋭い新作からは、潤いのある玉を連想することは難しい。しかし高さんは、「中国古代の『千字文』には『金は麗水から生じ、玉は崑岡より出づ』という言葉がある。これは、最高の金は麗水(長江上流の金沙江)から生まれ、最高の玉は辺鄙で遠い崑崙山から出るという意味。私の『氷紋』シリーズには、これと同じような意味が込められている」と説明する。つまりこの作品には、崑崙山から掘り出したばかりの粗玉と同じで、磨かれていない素朴な土臭さがあるのだという。これはあまり知られていない、玉のもう一つの面なのだ。

 「『水紋』と『氷紋』というのは、人間が交際するときの二つの状態に似ている。一つは礼儀正しい状態で、もう一つは酔っ払っている状態だ。どちらかと言うと、酔っ払っている状態のほうが、より私らしいかもしれない」

伝統と現代

作品を制作する高振宇さん

 高さんの陶芸への思いは複雑なものがある。陶磁器の都・江蘇省宜興市の紫砂陶器(同市で採取される土を用いて作った陶器)の名門に生まれた。祖先は宋の時代(960〜1279年)から陶器を作り始めたという。家庭での話題は紫砂のことばかり。少年時代はこのことを疎ましく感じていたため、専門高校では、運転手になろうと考えていた。

 しかし18歳になると、やはり陶芸の世界に戻り、紫砂陶器の名手、顧景洲氏に師事。高さんは作品集の中で次のように述べている。「子どもの頃、宜興の実家の周囲百メートル以内には、三つの竜窯(登り窯)が並んでいた。実家があった町全体には、30余りの大小さまざまの竜窯があり、夜になると、窯から立ち上る『火の竜』が空半分を紅く染めた。その夕焼けのように美しく壮大だった場景を、今でもはっきりと覚えている」

 こういった記憶が、再び陶芸に向かわせたのかもしれない。それでも、家族が代々受け継いでいる伝統に対しては反抗し続けた。

 南京芸術学院で陶芸を学んでいる間、本人いわく「見るだけで使うことができないもの」を作り始め、形が特異で、装飾性のあるものこそが芸術だと考えるようになった。これは、これまで受けた紫砂に関する教えとは相反するものだった。伝統的な紫砂芸術では、どんなに美しく、高価な急須でも、それはやはりお茶を飲むためのものだと考えられている。

 しかしこの時期、自分の作品にどうしても満足できず、それがどうしてなのかも分からなかった。

 1990年、日本に渡った。武蔵野美術大学で学び、辻清明氏と加藤達美氏に師事。日本の陶芸の大家からは、「使う」ことこそ器の魂であり、実用性のない陶磁器はいくら美しくても生命力がないということを学んだ。こうして迷いから脱却。「日本で学んだことは、初めに紫砂を学んだときに受けた教えが正しかったと悟らせるものだった」と高さんは話す。

顧景洲氏(中央)に師事していた頃の高振宇さん。隣は妻の徐徐さん

 ここ数年の作品は、「氷紋」にしろ「水紋」にしろ、「使うことを美とする」という考えが貫かれ、形は素朴でシンプルなものばかり。伝統的なものに戻っているとみる人もいるが、自分では、自分の作品は最も現代的であると考えている。

 「中国国内には、好んで装飾用の陶磁器を作り、伝統を壊すことで現代を称える人も多い。しかしこういった作品のほとんどは展示するためのものなので、展示し終わるとゴミとなってしまう。個性の解放が叫ばれた20世紀ならまだいいが、21世紀は環境保護の時代。使える器こそ時代に合っているのだ」

 また、「作品は使うようになったら、日常生活の普通のものとなり、芸術ではなくなると考えている人もいるが、それは絶対に間違っている」とも言う。

中国と日本

2006年4月に中国美術館で開催された作品展「玉出崑岡」。多くの参観者が高振宇さんの作品に見入った(写真・高原)

 周知のとおり、陶磁器は中国で生まれた。唐の時代に遣唐使が陶磁器を大量に日本へ持ち帰り、日本の職人たちがそれを真似て作るようになったのだ。明代の中ごろ、中国は鎖国政策をとったため、欧米の国々は日本から陶磁器を購入した。このため、日本の陶芸は大きく発展し始め、独自の個性を持つようになった。

 高さんによると、日本の陶芸の特徴は、日本人の飲食習慣からきているという。日本の料理は「水」の料理で、水で魚をきれいに洗い、それを切って器に盛り、生のままで食べる。使い終わった器は水でさっと流せばいい。日本の陶芸の自然を崇め尊ぶ態度は、こういった習慣によって培われたもので、日本人は陶器を好む。

中国の伝統文学から啓発を受けて制作した「歴史の回顧」シリーズの紫砂急須「明理壷」

 中国はこれとは異なり、食事を作るときにはまず火をたきつけ、鍋に油をいれ、料理を始める。中国の料理は「火」の料理であり、油っぽいものが多い。そこで、磁器を用いる。磁器のほうが洗いやすいからだ。つまり、飲食文化が器への要求を作り上げていくのである。

 「中国の陶芸が人間で言えば壮年にあたる全盛期だったころ、日本の陶芸はまだ子どもだった。子どもがだんだん成長して壮年期を迎えたころ、中国の陶芸はすでに老いてしまった」と高さんは語る。「中国の陶芸が衰退してしまったことは認めざるを得ない。私たちはそんな時代にいる。だから私は、1992年に東京で開催した初の個展を『青春の陶芸』と名づけた。衰弱した老樹を再び芽生えさせることができるようにと」 (写真提供・高振宇)


 
本社:中国北京西城区車公荘大街3号
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。