中国国際放送局キャスター
 王小燕  
 
心の和解めざす「花岡事件」の大館市

 

 東京から北へ637キロ。秋田県大館市は、忠犬ハチ公の生まれ故郷であると同時に、「花岡事件」の地でもある。

 戦時中、986名の中国人が連行され、強制労働を強いられた。リンチ、虐待と飢餓に耐えられず、彼らは1945年6月30日夜、決起したが、厳しい鎮圧を受け、418人が帰らぬ人となった。これが「花岡事件」である。
 
 この夏、私は、「花岡事件」で犠牲となった人々の慰霊式の日に、大館市を訪れた。負の遺産を背負わされた大館の人々は、どのような思いでこの歴史と向き合っているのだろうか、それを知るためだった。

過ちを風化させず、繰り返さず

 慰霊式が市の定例行事として定着したのは、1985年からである。市が強制連行の犠牲者を慰霊するのは、日本全国で、ここしかないと聞いた。

 慰霊式は、郊外の十瀬野公園に立つ「中国殉難烈士慰霊之碑」の前で催された。今年は中国からの生存者と遺族代表五人が参加し、県、市議会の議員、市民、労働組合や平和団体の関係者ら180人が参列した。

 式典で大館市の小畑元市長は、加害の史実を踏まえ、こう挨拶した。

 「事件を風化してはならず、過ちを繰り返してはならない。この慰霊式には、戦争やテロの終わらない世界に向かって、非核・平和都市宣言自治体として、戦争の全面禁止を強くアピールしていくという市民の想いが込められている」

 その言葉には、過去の過ちを誠実に受け止め、それを人類共通の教訓にしていこうという度量が感じられた。納得できる、明快なメッセージの発信だった。

 式典の前日、小畑市長は生存者と遺族に会った。地元紙の報道によると、市長は「事件は我々の歴史の汚点だが、これを後世に語り伝えることは義務だ。戦後四代の市長は常に慰霊に努めてきた。これからも変わらない」と述べた。

 これに対して生存者や遺族の代表は「長い間、みなさんが事件を忘れないでいることに感謝している。中日永遠の友好のために努力する」と答えたという。互いに相手への理解が滲み出ており、互いに歩み寄る努力がうかがえた。

 慰霊式は一時間ほど行われ、石碑の周りは白い菊の花や千羽鶴、寄せ書きで埋まった。シンプルだったが、主催者の真摯な気持ちが伝わる良い式典だった。若者たちの姿が見られたのは、とりわけ頼もしかった。

壁を越えて心が解け合った

花岡事件の生存者や遺族(手前)を歓迎し、歌を歌う日本の若者たち

 中国から慰霊式に参加した人たちは、痛ましい歴史と向き合う時間が長く、ずっと厳しい表情をしていた。しかし、彼らの表情が笑顔に変わり、心が解け合った瞬間があった。

 地元平和運動団体の主催で行われた歓迎会の時である。東京在住の韓国人シンガーソングライター、李政美さんが応援にかけつけた。アンコールが続き、李さんはついに中国語訳詞の入った歌を歌い始めた。歌いながら、彼女は満面の笑みで、82歳の生存者である王世清さんと70代の遺族の胡広金さんの手をとり、ダンスを踊り始めた。あまりにも突然だったので、王さんも胡さんも最初は表情がこわばっていた。

 しかし、李さんは笑顔で歌い続け、踊り続けた。いっしょに輪になり、踊り始める人もどんどん増え、一座の雰囲気がすっかり盛り上がった。王さんと胡さんはいつの間にか、笑顔で皆の輪に入り、踊った。

 人間は、壁を乗り越え、共通の何かを共有できると、彼女は信じているに違いない。彼女の気持ちが、言葉の通じない中国人のお年寄りたちにしっかり届いた。

記念館建設に想いを寄せる

 「花岡事件」の戦後処理をめぐり、生存者11人の提訴による花岡裁判は、2000年11月、強制連行された986人全員を対象にした和解が成立し、和解基金が設立された。しかし、被害者側による記念館建設の要求は満たされず、一部の提訴者は、裁判の結果に対し異論さえ唱えている。

 このような流れの中で地元市民が主体となり、花岡平和記念館建設運動が始まり、2002年6月、「NPO花岡平和記念会」が発足した。 NPOで会計を勤める木越陽子さん(58歳)は大館の生まれ育ちで、母親は「花岡事件」の晒し刑の現場を目撃した。彼女は淡々と語る。

 「当時、地元民の結成した自警団も中国人弾圧に加わった。が、敗戦に伴い、それまでの『愛国心』や『正義』が犯罪とされ、死刑を判決された人も出た。このショックで、戦後、花岡の人々はいつしか心にバリアーを構築し、事実を封印した。事件は花岡の人々を置いてきぼりにして記録され、検証され、伝えられていこうとしていた」

 しかし、中国人生存者や遺族の重々しい証言に触れ合ったとき、花岡の人々はその不自然さに気づき始めた。遺族との交流で、強い罪悪感を覚え、心がキリキリ痛んだ。「花岡事件は、花岡だけでなく日本人全体の罪だ」と人々は考えるようになったである。

 加害の地で記念館を建設して歴史を後世に語り伝え、そして、それを運営していくことにより、被害者と向き合い、真の和解をとげ、大館市民の心の救いを目指す。これが記念館建設運動で頑張る多くの人の想いである。

日本の宝から世界の宝に

 「花岡事件」に象徴された中日の不幸な歴史は、今を生きる私たちの眼前に、鋭く突きつけられている。両国の人々が新しい未来を迎えようとするとき、これが時として問題になり、交流の妨げになる場合もある。心の和解は、本当に難しい。

 しかし、歴史問題をどう乗り越えるかが大切である。大館市は歴史的事件の発生地として、行政も市民も被害者と真摯に向き合い、和解に向かって努力し続けている。聞くところによれば、記念館建設運動は日本各界で反響を呼び、応援を得て、支援の輪が少しずつ広がってきている。素晴らしいと思う。

 もし幅広い層の支援の結果、大館に平和記念館が建ったなら、世界でも数少ない「加害者の視点を踏まえた」記念館になるだろう。龍谷大学の田中宏教授は、こういう努力を続ける大館市を「日本の宝」と称えた。

 日本は、第2次世界大戦で加害と被害を一身に体験した。大館市の取り組みが「日本の宝」ならば、日本は「世界の宝」になるため条件が十分に備わっている。一地方都市の努力を、もっと多くの日本人、中国人に知ってもらいたいと思った。

 

 

 
本社:中国北京西城区車公荘大街3号
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。