穆桂英、元帥となる
北宋(960〜1127年)時代、北方の少数民族契丹人が打ち立てた国家――
遼王朝は幾度となく中原(黄河中流・下流地域)に侵攻した。外敵侵入に抵抗するため、名将楊継業一族は忠義を尽くし命を賭して、長きにわたって戦場で戦い続けた。戦死する者もあれば、奸臣に陥れられ冤罪の晴れぬまま命を落とす者もあり、残された孤児や未亡人たちは故郷に帰って隠れ住んだ。
やがて西夏王の反逆が始まると、宋の皇帝は武芸試合で元帥を選ぶよう命令を下した。楊継業のシャ夫人太君は国をひどく憂い、曾孫の楊文広兄妹を都に差し向けて様子を探らせた。二人が都に着くと、ちょうど試合が行われているところだった。機に乗じて楊文広が飛び入りし、王倫を刀で叩き切り、帥(最高指揮官)の印を奪い返して戻ってきた。
宋の皇帝は彼が楊家の末裔と知ると、その罪を許して印を賜り、兄妹の母である穆桂英に元帥として出征するよう命じた。楊家は幾度となく奸臣に陥れられてきたため、齢50を過ぎた穆桂英は深い恨みを抱いており、帥の印を受け取りたがらない。そこで、民族の大義を重く見たルワ太君が、桂英説得に乗り出した。こうして、穆桂英は鎧に着替え颯爽とした勇姿で、自ら指名した将軍たちと共に大軍を率いて、毅然と出征した。
『穆桂英掛帥(穆桂英、元帥となる)』は元代の小説と民間伝説に由来するものであるが、戯曲として最も早く取り入れたのは、豫劇(河南省の地方劇)の作品であった。
|