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早朝、花児会に急ぐ人々が松鳴岩の小道に続々と |
「花児」は甘粛、青海、寧夏一帯の漢族、回族、トゥー族、トンシャン族、パオアン族、サラール族、ユーグ族、チベット族の間で流行している民謡である。年一回の花児会は、庶民が自発的に開催する対歌(双方が一問一答の形で歌う)や競歌(歌を競い合う)の集会として代々受け継がれてきたいわゆる歌垣で、すでに数百年の歴史がある。
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高らかに心行くまで歌い上げる歌い手 |
麦の穂が成熟し、見渡すかぎり黄金色となる菜の花の季節が来るたびに、百以上に及ぶ花児会が次々と始まる。甘粛省和政県の「松鳴岩花児会」、永靖県の「炳霊寺花児会」、岷県の「二郎山花児会」、康楽県の「蓮花山花児会」、また寧夏回族自治区の西海固地区の花児会、青海のサラール族の花児会などは、それぞれ特色があり、評判が高い。そのうち、松鳴岩花児会と蓮花山花児会はもっとも規模が大きく、それぞれ河湟と莅岷の花児の二大流派を代表している。2006年6月、この二つの花児会は文化部(省)の認可を受け、国家クラスの無形文化遺産リストに登録された。
松鳴岩花児会の伝説
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花児会の観衆も引き付けた大会 |
松鳴岩は甘粛省にある国家4A級の風景名勝区である。和政県の南から25キロ離れた海抜2730メートルの峡谷にある。その主峰には、明の成化(1465〜1487年)の時期に建てられた玉皇閣、菩薩大殿、聖母宮などの建築物がある。周囲十数キロに連なる山々は松の古樹に覆われ、山容が高く険しく、松風が波のように聞こえるため、「松鳴岩」という名で呼ばれるようになった。
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年に一度のこの機会は、お年寄りも見逃せない |
はるか昔から伝わる物語がある。ある猟師が山に入って猟をしていたところ、松鳴岩の頂上から女の子の歌声が聞こえてきた。猟師が飛ぶように山頂に駆け登ると、今度はその歌声が山麓でこだましている。山を下りて探し回ると、歌声は再び頂上へ戻っている。このように幾度となく登ったり下りたりしているうちに、すっかり日が暮れてしまったが、女の子は影も形も見えない。猟師はふと、あれは仙女の歌声だったのだと悟る。家に帰ってから、彼は仙女にめぐりあったことをみんなに話し、聴いた歌を教えた。この歌こそ花児である。やがて、世間に優美な歌をもたらした仙女を記念して、人々は松鳴岩の上に立派な菩薩大殿を建てた。猟師が仙女に出会ったその日がめぐって来ると、老若男女は松鳴岩に集まり、仙女から教えられた花児を歌いだした。以来、ここで毎年花児会が行われるようになった。会期は毎年旧暦の4月26日から28日までの3日間となっている。
歌い手が花児会の主役
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入賞した歌い手たち。政府はこうした大会を通じて、これらの民間芸術家を奨励、保護したいと考えている |
旧暦4月26日の朝、和政県の人々は続々と家を出る。歩いてゆく人もいれば、乗り物に乗ってゆく人もいる。通りには人の波があふれ、さまざまな乗り物で賑わう。風景区に入ると、臨時に張られたテントの店が道の両側にずらりと並び、充実した品揃えのさまざまな商品が見られる。サーカス、遊楽場、レストランは一丸となって客引きに励み、音楽や呼び売りの声が絶えず響きわたっている。
会場には人があふれている。歌い手は花児会の主役であり、彼らの歌声が響けば、興味津々の聴衆が自然に取り囲むようにして集まってくる。歌い手の服装は特色があるわけではないため、人々の中に埋没してしまう。老若男女、歌いたい人はだれでも、立ち上がって歌うことができる。彼らが口を開いたとたん、その美しい声、機知に富んだ返歌、機敏な反応に驚く。女性の歌い手は常に色とりどりの扇子で顔を半分隠し、多情な両目だけを覗かせ、男性の歌い手は片手を耳の後ろにかざす。こうすれば歌声をもっと遠くまで伝えることができるといわれているのだ。
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花児会に加わった定年退職者。若者がすかさず録音。彼も将来は花児の王? |
花児会には、広く認知されてきた昔ながらのルールがある。歌い手が見知らぬ相手であれば、まず「初お目見えの歌」を歌って、礼儀を示す。その歌詞の内容は、挨拶をはじめ、どこから来たのか、どのようなことを歌いたいのかを尋ねるといったものである。そして相手は、恋の歌を歌いたいと歌で答えたり『三国演義』など古典的な物語を聞かせてほしいと歌で頼んだりする。そうこうして一問一答を繰り返すうちに、3、4時間があっという間に過ぎてゆき、花児会の終わりには「お別れの歌」を歌って、名残惜しさを示す。心に思うことをすべて歌で伝え歌で答えるという、即興の、生き生きとしたおもしろさがある。
花児会のときには、誰もが世俗的な束縛にとらわれることなく、貴賎尊卑の別なく、思う存分楽しむことができる。平素、伝統的な礼儀や道徳の強い影響を受けている西北部の農民たちにとって、花児会は自由に感情をぶちまけられるカーニバルであるに違いない。
歌うことでリラックス
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機知に富んだ言葉を連ね、即興で作詞する丁如海さん |
「花児会では長幼を問わず」。同じ一族でさえなければ、上の世代と下の世代の間で恋歌を歌い合おうと何もはばかることはない。花児会は歌声の対決と精神の呼応のみを求めるものであるからだ。通常は、数時間にわたって歌いあった2人でも、相手の年齢や住所を聞くことはしない。もちろん、歌を通じて恋人同志になる2人もいないわけではない。
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丁さん(前列左側)は帰宅すると、花児会のときの風采とは打って変わって、口下手に。右から3人目が彼の奥さん |
人ごみの中で、血気盛んな年頃の男性と、50歳前後の女性の歌い手とが恋歌を歌いあっている。男性の名は丁如海さん、今年36歳になる。黒ずんだ顔を赤らめ、絶えず微笑みを浮かべている。小さな白帽子をかぶった、典型的な回族の男性である。歌い始めると、彼は感情をたかぶらせ、機知に富んだ言葉を連ね、ひとしきり観衆の笑いと拍手に包まれた。彼の家は、松鳴岩から30キロ余り離れた黄土高原の回族の村落にある。彼は羊の放牧をしていた幼いころから、花児を歌っているという。西北部の歌い手の多くは、羊飼い出身であるようだ。広大な大自然が、歌声で思いのたけを自由に吐き出す空間を彼らに提供してくれるからであろう。丁さんは18歳から出稼ぎに出て、甘粛省の省都蘭州を始め、さらに遠い新疆、青海などの建築現場で働いてきた。夜、工事現場の小屋で休むとき、星空を眺めながら、思わず花児が口をついてくる。故郷や両親に直接ふれるような歌詞ではないが、花児そのものが故郷の言葉だからだ。花児のおかげで彼は仕事の辛さを忘れることができ、その歌声を耳にした同僚たちから賞賛と尊重を得ることにもなった。「花児を歌うことでリラックスできるんだ」。彼は流行歌は好まず、ただ花児を歌うことが好きなのだ。
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年配者の歌声を丁寧に味わおう |
丁さんは毎年、松鳴岩花児会に参加するために帰ってくる。会期の3日間は連日夜が明ける前に、彼は会場へ駆けつける。今ではバスが通じているが、かつては徒歩で、3、4時間歩き続けなければならなかった。たいていは夜8時か、9時まで歌い、11時か12時にようやく家に帰りつく。彼は学校に行ったことがないが、即興で作詞をすることができる。2005年、甘粛省の嘉峪関で行われた花児の大会で、彼は二等賞になった。彼は野山で大声で歌うことも、花児会で女性の歌い手と恋歌をしみじみと歌い合うことも大好きだけれど、村に帰ると決して歌わない。生活は歌声のロマンからかけ離れているからだという。この村の回族の婦人は花児を歌わないし、丁さんの奥さんも花児会にはほとんど行かない。しかし、彼女は夫が歌いに行くことに反対しているわけではない。「花児を歌うのはただの遊びですから、何を歌おうと、怒るようなことはありませんよ」
花児は心の中の思い
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丁さんと歌いあう馬芝蘭さんは、50歳。美しい歌声は衰えず |
丁さんと歌いあっていた女性の歌い手・馬芝蘭さんは、50歳になるトンシャン族の人である。彼女も花児を歌い始めたのは羊の放牧をしていた幼いころからだ。彼女の村には漢族とトンシャン族が雑居し、イスラム教を信仰している。結婚したばかりころ、彼女は家事をしながら何かにつけて歌を歌っていた。麦を収穫するときに歌うのが一番好きだと言う。果てしない広野で歌うのは、何ものにもとらわれず自由でいられ、辛い仕事も楽になるような気がするからだ。彼女も学校に行ったことはないが、花児会に行くとたちまち周りの雰囲気にのまれて歌いたくなり、歌い始めるとすぐに、歌詞が自然に口をついて出てくるようになる。
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花児会の期間中、甘粛省和政県政府主催の第二回中国西部花児(民謡)大会もここで行われた。新疆、青海、寧夏、貴州、チベットなど九つの省・自治区からやって来た参加者は、大部分が農村や牧畜地区からの歌い手である |
著名な花児の研究者である蘭州大学の柯楊教授は、このような状況にたびたび出くわすという。花児会での歌い手たちは休むことなく数時間歌い続けても、内容が重複することはない。しかし、彼らは家にいるときに歌詞を口にしようとしても、たちまち言葉につまってしまうのだという。即興の花児は、生き生きとした情景に接し、感慨を呼び起こされることで生まれるものなのだろう。現場の激情、相手の激励、観衆の喝采があってはじめて、すばらしい歌詞が自由にあふれてくるのである。
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花児会の期間中、人々は山に登り、寺院に参拝する |
花児会は競い合いの場であり、歌いたい人は誰でも歌うことができる。司会者も、審査員も、権威もなく、観衆が拍手と笑い声という褒賞を与えてくれるだけである。そのうちの多くは歌好きと歌い手の追っかけであり、彼らは花児会の人だかりから人だかりを渡り歩く。麦わら帽子をかぶり、水筒を下げているのは、県城からやってきたという定年退職者たちだ。彼らは頑固な花児ファンである。退職後は毎年やってきて、あちこちの花児会を回って楽しむ。花児会が開かれるのは、景色のすばらしい場所ばかりである。退職者たちのこのような行為は、旅行の楽しみとともに、心身の健康も追求することができる。彼らはテープレコーダーを持参し、単純に聴くだけのこともあれば、学びながら歌うこともある。当地の歌い手と歌い合い、優劣を競うほどになった人もいる。
花児のとりこになった研究者
松鳴岩の花児会へ向かう途中、運良く柯楊教授に同行することになった。50歳ほどにしか見えない丈夫そうな身体をした、声の大きな、活力あふれる71歳である。
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花児会では、本場の特色ある軽食も食べられる |
1958年、柯楊教授は蘭州大学の中国文学部を卒業、学校に残って教員となってから、民間文学が気になるようになった。1963年、初めて蓮花山を訪れ、その盛大な花児会と花児に深く心を揺さぶられた。彼はその感動に突き動かされるようにして民間文学研究の道へと足を踏み入れ、最初のノンフィクション――『蓮花山の花児会で』を書いた。それ以来、彼は花児研究の道を歩み始めたのである。
数十年来、彼はたびたび学生をつれて、また国内外の学者を案内して甘粛、青海、寧夏一帯で花児収集に励んできた。7000首以上の花児を記録し、花児に関する大量の一次資料を集め、120あまりの論文と専門書を発表した。柯楊教授は、海外から調査、民謡収集にやってきた専門家や学者を受け入れたり、海外の院生を指導したり、国際的なシンポジウムに参加したり、文章を書いたりすることで、花児を国外へ紹介し、世界中のより多くの人々にこの中国の民謡、花児を理解してほしいと願っている。
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西北の民謡の歌い手を取材する花児研究の専門家、柯楊教授(右から2番目) |
親しみやすく、非常に人好きのする柯楊教授は、多くの歌い手と友だちになった。今では、彼自身も数十種類の花児を歌うことができるし、即興で作詞して、歌い手に挑むこともできる。花児の話になると、彼はいつでも滔々と語りだし、どこまでもきりがない。彼によれば、花児の歌い手の独特な構想には、驚くべきものがあるという。例えば、男女の恋物語を描く歌詞は、素朴でありながら、大胆である――
「あなたに会いたい、あなたに会いたくて死んでしまいそうだ。死んでしまったら、わたしはノミになりたい、あなたの全身をあますところなく噛みつくし、あなたのみぞおちで眠りたい」
花児はこのように生々しいもので、学者には想像もつかないような新しいものがいつでも飛び出してくる。だから、柯楊教授は花児収集をやめられないのである。