|
陶然亭 |
11世紀、遼代と次の金代の首都が、現在の北京の南西隅に置かれていた頃から、「陶然亭」は人々の重要なたまり場だった。1997年4月4日は輝かしい春の日で、白いアンズ、黄色のレンギョウ、木蓮、それぞれ花盛りだった。その日は清明節、中国人はこの日、先祖の墓に詣でて花を供える。
大勢の年金受給者や労働者たちが陶然亭に集まって一緒に歌を歌っていた。二胡の音色と銅鑼のリズムに乗って、30歳代後半の女性が歌う番だった。集まった人々は、彼女が難しい節まわしを歌いこなすと拍手喝采、「好!(いいぞ)」と叫んだ。
陶然亭公園には、中国伝統演劇との長い歴史がある。近隣には数百年来、数多くの地方同業会館劇場があり、近くに住む役者たちが陶然亭の人気を高めた。俳優や女優たちが今でも早朝からここで歌曲の練習をしているし、近くの京劇学院の学生たちが、やはりここで武術の練習に励んでいるのも見られる。
陶然亭公園内の西のはずれを訪ね歩いているのは、著名な書家、虞啓龍さんであった。彼は若いころに京劇を学んだ寺を探していたのだが、その寺はすでに取り壊されていた。72歳の虞さんは、その寺でどのように「老生」役(訳注:京劇の役柄の一つ。ひげを付けて中年以上の宰相、将軍、学者などを演じる)を学んだかを語った。これは皇帝、将軍から諸葛孔明のような定番ものの英雄まで、さまざまな役を演じなければならない。「私たちは日曜ごとに早朝からやって来て練習しました。仲間が40人ほどいましてね。高名な先生について学び、有名な京劇の花形役者が近くで練習するのを見学したものです」。彼は追憶にふけった。寺の跡はいま、北京崑曲(訳注:京劇の源流の一つとなった中国の古典音楽劇)学院になっている。
虞さんの家系は中国書法の優れた流れをくみ、その祖先は8世紀の書の大家、虞世南にまでさかのぼる。「虞世南の書を刻んだ石碑が、西安の碑林博物館に収められています」。 虞さんは北京フランス語学院と上海の震旦大学(イエズス会系)に学んだが、卒業後、舞台に立ち、劇団に所属して中国全土で公演した。しかし、運命が急変して書の道に帰ることになった。
|
公園内の湖 |
「1964年、フランスと中国が国交を再開したとき、私は請われてフランス外交官に中国文化を教えることになりました」。しかし、彼の書道には京劇の所作が見られる。筆を運ぶ際には手首が風のように動き、最後に筆が中空に止まって劇的に書き終わる。
陶然亭湖畔の小丘の上に小さな尼僧庵「慈悲庵」がある。「9月9日(旧暦)の重陽節は高い場所に登る日とされていますが、昔は北京市内であの丘だけが庶民の登れる唯一の高い場所でした」と虞さんが言った。旧城壁より高い陶然亭の丘は一般庶民にとって恰好の場所だった。
すでに12世紀始めから、ここは重要な場所であったことが石碑に記されている。17世紀末に尼僧庵の敷地内に建てられたあずまやは、高名な唐の詩人、白居易の詩句を引用して「陶然亭」と命名された。
詩に詠う、
更待菊黄家ウン熟
更に菊黄に家ウンの熟するを待ち
共君一酔一陶然
君と共に一酔して一に陶然たらん
亭の上にはまた、清代の方綱翁による対聯、
煙籠古寺無人到
煙は古寺を籠めて人の到る無く
樹倚深堂有月来
樹は深堂に倚りて月の来たるあり
が掛かっている。ここでの詩作は伝統となり、陶然亭を讃える詩が生まれた。
「詩は書かれましたがね」と虞さんは続けた。「実はこの場所は昔あまりきれいじゃなかったんですよ。丘の周囲は墓地と沼地でしてね。湖というのは、実はアシがいっぱい生えた、ただのよどんだ池でした。陶然亭のある丘はちょうど明代の城壁の内側にありましたが、その南側から城壁にかけては掘立て小屋がひしめいていましたよ」
公園内の寺廟やあずまやは秘密の集会所としても使われた。19世紀末、腐敗した清王朝の改革を求めた変法論者たちは、ここで激論を闘わせた。中華民国の創始者、孫中山(孫文)もまた、公園の集会に参加していた。後に陶然亭は初期共産主義運動の密会の場所となった。
現在ここは美しい景観公園として整備され、湖にはボートが浮かんでいる。汚れた沼地や小さな池が姿を変えたものだ。去り際に虞さんはもう一つのあずまやを指さした。そこでは一人の老人が歌い始めていた。陶然亭が何年も聞きなじんできた歌曲だった。 (訳・小池晴子)
五洲伝播出版社の『古き北京との出会い』より
|