秘境アバの自然と民族 K

蜀の名将姜維ゆかりの地 古城壁の残るチャン族の都

劉世昭=文・写真
 
  『三国志・蜀志・姜維伝』の記載によれば、「延熙6年(243年)……ブン山の夷が叛き、姜維が軍勢を率いて之を平定した」という。ブン山とは、当時蜀国の姜維が戦ったところである。

迷宮と呼ばれる蘿蔔寨の路地に入り込むと、出口を見つけるのは一苦労
    ブン川県県城の威州鎮のそばの小道に沿って山に登り、100メートル余り行くと平らな台地にたどり着く。その台地には、延々と連なる長さ840メートルの城壁が残っている。これが威州古城壁遺跡である。

 城壁の上から威州鎮を見下ろすと、こんこんと流れる岷江とザグノ河がここで合流し、成都市の守衛たる都江堰へと向かってゆく。

 古城壁の外観は、北方の万里の長城とよく似ており、厚さは約2.5メートル、高さは約3.5メートルである。城壁の段階の部分は完全な状態のまま保存されており、戦争の際の射撃口や雉チョウ(古代の城壁の上の、矢をよけるためのギザギザのあるひめがき)は、現在でも840以上が残っている。

威州の明代城壁の射撃口

 当初は、城壁は岷江のほとりから山の上までずっと取り囲むように延び、守るは易く攻めるは難しという防御システムをなしていた。しかし、1933年の水害で麓の城壁の一部が押し流され、今日残る姿のみとなってしまった。

 威州の古代城壁は、明の孝宗弘治年間(1488〜1505年)に、歴代の城を繋ぎ合わせて建て直したものである。城壁の遺跡には、三国時代(220〜280年)に築かれた土をつき固めた台や城壁が残り、「姜維城」と呼ばれている。

 三国時代の蜀漢(221〜263年)晩期、後主劉禅が後方を強化するため、将軍姜維の百方手を尽くした推薦の下、王嗣という若い官員を辺境のブン山郡(統轄地域は、現在のブン川県、理県、茂県、黒水県などが含まれ、当時百余りの部族があった)に派遣し、太守に任じた。

山に延々と連なる威州の明代城壁
姜維城の点将台
姜維城遺跡
威州の明代城壁遺跡

 延熙6年、ブン山の一部の部族で反乱が起こり、それを知った姜維は、軍隊を率いて平定に赴いた。やがて王嗣の統治のもと、ブン山郡は民族の仲睦まじい、経済の発達した地域となった。そして延熙10年(247年)、県城の後ろの山に防衛用の城壁が修築されたのである。

中国最大のチャン族の村--蘿蔔寨

 蜀漢炎興元年(263年)、魏国の軍隊が蜀国に攻め寄せ、剣門関を守っていた姜維が戦いに敗れ、殺されてしまった。それを聞いた王嗣は天を仰ぎつつ、「天意は姜維大兄を滅ぼし、わが蜀漢を滅ぼしなさった」と嘆いた。そして反乱を平定した姜維の功績を記念し、城壁を姜維城と命名することで、知遇の恩を返したのであった。

 1700年以上風雨にさらされてきた姜維城遺跡は、わずか100メートル足らずしか残っていない。最も高い所で約10メートル、幅は約3メートル。また、点将台といわれる台は、高さ約6メートル、長さも幅も約8〜10メートルあり、言い伝えによると、かつて姜維が将官を指名して任務を与えたところだという。

80歳のチャン族の老人も、かごを背負って野良仕事をする

 姜維城をそぞろ歩きしていると、無造作に拾い上げたレンガや瓦の破片からも、歴史の息吹が感じられるかのようである。朝から晩まで、絶えず人々がここに集まり、身体を鍛えたり、散歩したり、遊んだりしている様子も見ることができる。

 特筆すべきは、さらに姜維城の遺跡の下から、新石器時代の遺跡が発見されたことであろう。専門家の分析によると、この遺跡は遙か遠くの甘粛省や青海省で発見された有名な中国先史文化――馬家窰文化と同じ類型に属する文化だという。これは、5000年前の先史時代、すでにチャン族から枝分かれした一族が遙か遠く離れた土地から移動してきて、人口を増やし、生き続けてきたということを説明している。

チャン族刺繍の技術を持つ、手先の器用なチャン族の女性

   中国の有名な考古学者兪偉超氏は、現場を見た後、「一つの民族が同じ場所で5000年以上もの長い間生き続けてきたのは、世界でも例のないこと」と感嘆した。

 それより以前の1921年には、考古学者がこの地で石器を掘り出している。近年、さらに驚くべき発見があった。出土した文物は、陶器、石の斧、叩き石、灰色の下地にさまざまな太さの縄文のついた陶器のかけらなどであり、さらに今から5000年以上前の彩陶も発掘された。これらの精巧で美しい彩陶のかけらには、微かに魚の図案も見える。ここから数百キロ離れた古代蜀漢文化の代表である広漢市の三星堆を、はからずも連想させる。

 魚の図案は、三星堆遺跡に出土した文物の最も顕著な特徴の一つである。したがって考古学者は、この地こそ人々がずっと以前から探し続けている三星堆文化の源なのではないかと考え始めている。その結論は、姜維城遺跡の発掘をさらに一歩進めることによって明らかになるだろう。

チャン族の唯一の版蓄建築群である蘿蔔寨民居

 チャン族は、中国で最も古い歴史をもつ民族の一つである。中国の多くの民族の身体には、チャン族の血が流れている。千数百年にわたる分化と融合を経て、チャン族の一部は漢民族の重要な一員となり、大部分は次第に細分化が進み、チベット・ミャンマー語系の各民族、例えばチベット族、イ族、ぺー族、ナシ族、ラフ族、トウチャ族、ハニ族などに分化した。

 県城から約15キロ離れた、海抜およそ2000メートルの山には、ブン川県で最大かつ最古のチャン族の村――蘿蔔寨がある。そこには、人々に「雲上の迷宮、チャン族の都」と呼ばれるチャン族の唯一の版築建築群がある。

伝統的なはた織り機で、かごを背負うときに必要な肩当てを織る老人たち

 現在、蘿蔔寨には200戸2000人余りが住んでいる。民居はすべて2、3階建ての土造りの家である。村の建築のスタイルは特別なもので、中心部の建築は相連なり、屋根と屋根がひとつにつながっていて、一軒の屋根から数十、ひいては百軒にも通じている。さらに村の路地は縦横に交差しており、まるで迷宮のようである。このことから、村を建築した当時、人々が軍事的な観点からの防御を考慮にいれ、敵に抵抗しうる堅固な砦を作ろうとしたことがわかる。

 村に入ると、村人たちは穏やかだが忙しい生活を送っているようであった。働き盛りの若者たちは畑から熟したトウモロコシを背負って帰り、子どもたちはそれを屋根の上に広げて干し、手先が器用な女性たちは刺繍をし、年寄りの女性は古いはた織り機でかごを背負うときに必要な肩当てを織る……。

 考古学者の考証によれば、人類は4000年前からこの土地に暮らし始め、2000年前にはすでにチャン族を主とした政治、経済、文化、宗教の発展の中心であったことがわかっている。



 

本社:中国北京西城区車公荘大街3号
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。