特集
国宝たちが語る中華文明の精髄
沈暁寧=文 中国国家博物館=写真提供

魚鳥紋彩陶壺(新石器時代)
 高さ21センチ、口径2.1センチ、底の直径8.5センチ
1958〜1960年、陝西省宝鶏北首嶺出土
蜷体玉竜(新石器時代・紅山文化)
高さ26.3センチ、もっとも広い幅29.3センチ
1971年内蒙古自治区オンニュド旗三星他拉村出土
腰佩寛柄器玉人(殷後期)
高さ7センチ、幅3.5センチ
1976年河南省安陽殷墟婦好墓出土
突目銅面具(殷後期)
高さ85.4センチ、幅78センチ
1986年四川省広漢三星堆出土

 今年は中国と日本が国交を正常化してから35周年に当たる。それを記念して、中国の国宝級の文物ばかり61点が一挙に、東京国立博物館で展示される。「悠久の美――中国国家博物館名品展」である。

 展示されるのは、新石器時代から10世紀の五代十国時代までの文物で、約3000年にわたる悠久の中国の歴史を物語る。

 中国には「海外の展示では、国宝級の文物は2割を超えてはならない」という規定があるが、今回の「中国国家博物館名品展」では、国務院が特に「例外」を認めた。

 展示される文物は、一つ一つにエピソードがある。そのいくつかを紹介しながら、歴史散策を楽しむことにしよう。

甲羅に4本の矢が立った巨大スッポンの謎

作冊般銅ゲン
殷代後期、長さ21.4センチ、幅16センチ、高さ10センチ
作冊般銅ゲンの背にある銘文

 殷の紂王の力を示す

 紀元前11世紀のある日のこと、殷(商)王朝の最後の王となる紂王は、家来たちを従えて、エン水(現在の河南省を流れる安陽河)近くで狩りをしていた。突然、紂王は川岸に一匹の巨大なスッポン(ゲン)がはっているのを見つけた。紂王は弓に矢をつがえ、スッポンの背中を射抜いた。だがスッポンは死なず、水中に逃げようとした。スッポンはさらに3本の矢を射られて、ついに捕らえられた。

 紂王は非常に喜び、家来に命じてそのスッポンを「般」という名の「作冊」(文書、記録をつかさどる史官)に賜い、巨大スッポンを捕らえたことを記録させた。これによって紂王は、自らの神の如き武威と権威を示そうとしたのである。

 殷の時代は、君主が大型の獲物を捕らえたとき、「作冊」が必ず獲物の頭蓋骨に君主がこれを捕らえた旨を銘記して刻み、それを後世に伝えた。しかし、この巨大スッポンは違っていた。もしスッポンの甲羅の上にそのことを書いただけなら、紂王の射撃術のすごさを表すことができなかったであろう。

彩絵雁魚銅灯(前漢)
全体の高さ52.6センチ、長さ34.6センチ、幅17.8センチ
1985年山西省朔州照十八荘出土
 そこで「般」という「作冊」は、背中に四本の矢が刺さっている、長さ21.4センチ、幅16センチ、高さ10センチの青銅製のスッポンを鋳造した。そしてその背中に4行、32字を彫り付け、狩りの模様を記載したのである。これによって3000年以上も前に起こったことを、私たちはいま、知ることができるのである。 写実性溢れる造形  殷周時代、中国の青銅器工芸は最盛期を迎え、後に「青銅時代」と呼ばれるようになった。当時の史官は、青銅器の上に記事を鋳造する伝統を打ち立てた。例えば殷代の司母戊の方鼎の銘文は、殷の王である祖庚や祖甲が母を祀った情景を記載し、西周時代の「班」という銘のあるキは、北京の都市建設の歴史を記述している。

 2003年、中国国家博物館が海外から、この「作冊般の銅ゲン」を買い取ったとき、中国の考古学に大きな波紋を巻き起こした。これは、「作冊般の銅ゲン」がこれまでの銘文のある青銅器とはまったく異なっていたからである。

青磁騎俑(2件)(晋)
全体の高さ24センチと23.5センチ
1958年湖南省長沙金盆嶺出土
 従来、銘文が鋳られた青銅器の多くは、鼎やキ、尊など荘重で神聖な礼器(祭礼に用いる器)であり、記載されている重大事件とあいまって「国の宝」として尊ばれてきた。しかし「作冊般の銅ゲン」は完全に写実的手法を取り、その造形にはまったく神話的色彩がないばかりでなく、スッポンの背に立った矢もきわめて普通のものである。また質朴で自然な記述も、初めて発見されたものである。 銅ゲンをめぐる論争  「作冊般の銅ゲン」の背に刻まれた甲骨文をめぐって、多くの金石文の専門家が解読を試み、学術的な論争が起こった。

 最初にスッポンに命中した矢は紂王が放ったということは、すでに常識となっているが、その後の3本の矢は誰が射たものなのか。

 一部の専門家は、たぶん紂王に随行していた武士が射たものだろうと考えた。紂王が獲物を発見し、矢を射て傷つけ、それを捕獲する仕事は召使が行ったというのだ。

 しかし、中国国家博物館の前館長で、青銅器や金石文の専門家である朱鳳瀚さんは、それとは違った見方をしている。彼は、スッポンの背に刺さった4本の矢はすべて紂王が放ったものだと考えている。なぜなら、「作冊般の銅ゲン」の背の上の矢はすべて矢羽根であり、このことはすべての矢が硬いスッポンの甲羅を射抜いたことを示している。しかもまた、紂王は、自分の射撃術が正確で、腕の力は人並みはずれていることを示すため、「般」に命じてこのことを記載させたのだ、というのである。

 「もし、家来たちがみな紂王の水準に達していたなら、どうして紂王の武芸の神業を、この青銅器で突出させることができただろうか」と朱鳳瀚さんは笑いながら言った。

 このほかにも、「作冊般の銅ゲン」の上に記載されている「作母宝」という三文字についても、専門家たちは思考を重ねた。紂王がスッポンを贈ったのは「般」ではなく、「般の母親」だったと考えた人もいた。しかし、朱鳳瀚さんは、「母」の字は「母親」と読むことはできず、「汝」と解すべきで、「貴方」の意味である、と考えた。「紂王がスッポンを射て、史官の般に記載させ、保存させたことと、般の母親とはまったく関係がない」と彼は言っている。

玉j(新石器時代)
高さ49.7センチ、上部の幅6.4センチ、下部の幅5.6センチ
山東省出土と伝えられた
銅爵(夏・二里頭文化)
注ぎ口の長さ14.5センチ、高さ13.5センチ
1984年河南省偃師二里頭出土
朱絵獣耳陶壺(戦国・燕)
高さ70.2センチ
1964年北京市昌平松園村出土
王子午銅鼎(春秋・楚)
全体の高さ67センチ、口径66センチ、胴体の径68センチ
1979年河南省淅川下寺出土

 

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