9紀当時の日本において、遣唐使派遣は国家の重要な政策の一つであった。一行には唐朝廷を訪問する遣唐大使代表団のほかに、僧侶、職人、商人など中国の先進文化に学ぼうとする人々の一団も加わっていた。とりわけ中国の高僧の下で仏法の教えを学びたいと念願する学僧にとって、渡海は不可欠の経験とされていた。
円仁は京都に近い比叡山延暦寺の高僧であり、その師最澄は、805年唐において天台宗の教学を学び、教典と法具を携えて帰国していた。円仁もまた渡海を決意し、延暦寺は仏教哲理と戒律に関する数々の疑問点について答えを得てくるよう円仁に大きな期待を寄せた。
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一日の仕事を終えて帰途につく貝採り
円仁が到着したと思われる岸は、今では土砂が堆積して、砂浜は沖合15キロ先まで延びている。私は海を探しに出かけたのだが見つからず、ついに小さなトラクターに窮屈そうに乗りこんだ貝採りたちに「海はどこですか」と尋ねる始末だった。私の持っている現代の地図でも、海は私が立っている位置よりずっと内側にあるはずだった。彼らは笑って、「足元だよ。潮が引いているんだ」と答えた。 |
838年、円仁は遣唐使一行に加わり、150人乗りの船3隻からなる船団とともに船出した。一行は九州博多湾から出航し、荒波に漂うこと2週間、現在の江蘇省如東に近い海岸に到着した。当時船頭たちは皆、如東を目指すよう指示されていた。そこから運河伝いに国際都市揚州へ行くことができたからである。
旧暦7月2日、ようやく目的地にたどり着いた一行は、船が泥沙の深みにはまったため、水浸しの湿地を這うようにして上陸しなければならなかった。一行は地元の漁師たちに救われて岸にひっぱり上げられた。運よく港をつなぐ狭い運河が見つかり、小舟を使って内陸部へ運ばれた。途中、運河通行を管理する塩官庁役人に出会い、筆談によるやりとりで自分たちの所在地を知ったのである。
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如皐運河橋の下を通る運搬船(左)
円仁はまさにこの運河を通って揚州に向かい、これは隋代に建設されたものであると記している。現在、運河を行く運搬船は主として砂利を運んでいて、如皐は活気にあふれた運河港である。
船上生活の少年 (右) 円仁の日記を理解するには、同じルートを旅する中国人一家と行を共にするが一番だ! そう考えた私は、早速ある家族の所有する砂利運搬船に乗せてもらった。一隅に生活用の小部屋のついた運搬船は、如皐で売る百トンの砂利を安徽省から運んでいる。円仁が恐ろしい蚊に閉口していたので、私は13歳になる徐家の息子に、やはり蚊に悩まされているかと尋ねてみた。彼は小部屋に私を連れて行き、机もベッドも広い蚊帳にすっぽり包まれている様を見せてくれた。 |
一行は数隻の小舟に分乗し、両岸の細い道を往く水牛に曳かれて運河を西へ向かった。ようやく一軒の僧院で休むこととなり、大使・漢学者藤原常嗣の一団は国清寺という寺に宿泊した。
円仁の日記によると、恐ろしい蚊に攻めたてられたという。「蚊はハエほどにも大きく、夜になると人間を苦しめ、その辛さたるや果てしない」と円仁は書いている。こうして一行は3週間の旅の末、揚州に着いた。塩を運ぶ数知れぬ官船に円仁は驚いている。「3、4隻、あるいは4、5隻が相連なって列をなし、数十里の間途切れることなく続いていく。この予期せぬ光景は容易に描写できるものではない」と。
こうした記述は円仁日記の最初の数ページに表れている。今の時代にこれを読み、円仁とその一行が1200年前に踏破したルートをたどるのは、時空を超えた興味深い冒険である。私はなんであれ過去とつながる風景を探してみようと思いたった。円仁と同じように、私もまた土地の人々の姿を訪ねてその暮らしぶりを知った。
円仁はあらゆることに敏感に反応し、記述は動植物相にまで及んでいる。彼の観察眼を通して、私はいっそう注意深く周囲を眺めるようになり、徒歩であれ小舟であれ可能な限り彼の旅を追体験した。それは今日の中国をよく知るための最善の方法でもある。
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