今年36歳の若手映画監督の賈樟柯は、すでに6本の映画を撮り、中国における「第6世代」映画監督の代表的人物として広く知られている。
最新作『三峡好人』が昨年、第63回ベネチア国際映画祭の最高賞である金獅子賞に輝いた、今もっとも注目される映画監督の一人である。
1991年、21歳の賈樟柯は山西大学で美術の勉強をしていた。ある日、彼は友だちと会う約束をしていたが、相手はやって来なかった。がっかりした彼は、ひとりで映画を観に行った。そのとき上映していたのは陳凱歌の『黄色い大地(黄土地)』。映画の中の「翠巧」という名の女の子は、来る日も来る日も痩せた小さな身体で桶を担ぎ、黄河の水を汲みに行く。桶の中の水は黄色かった。まるで自分の故郷の生活風景のように感じた賈樟柯に、表現したいという欲望がわき上がった。このとき、彼は映画監督になることを心に決めたのだった。
このことを知った彼の父は、彼が映画スターになりたがっているものと誤解し、慌てて故郷の山西省汾陽から駆けつけた。じっくりと真剣に観察し、息子は頭がおかしくなったわけではないと判断した父だったが、それでも映画の世界に身を投じるのは、現実離れした考えとしか思えなかった。賈樟柯は、監督になりたいという気持ち、そして自分の夢の責任はすべて自分自身が引き受けるということを父に説明し、電影学院に合格しなかったら、故郷に帰って肉屋を開いて働くと約束した。こうして、かろうじて父の同意を取りつけた。
1993年、23歳の賈樟柯は、北京電影学院の映画理論科に合格した。大学2年生のときに、「青年実験電影小組(若手による実験映画グループ)」を組織し、苦学して稼いだ収入を投じて最初の短編『有一天、在北京』(ある日、北京で)を撮影、映画監督の道を歩きはじめた。 (写真・劉世昭 文・高原)
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