女流作家・王海鴒は、中国で最も婚姻関係を描くのがうまい作家として、高い評価を得ている。過去に彼女が書いた小説『牽手』は「不倫」を、『中国式離婚』は「離婚」をテーマに描いた作品で、いずれもテレビドラマ化され、社会に大きな反響を引き起こした。2006年、王海鴒は新作『新結婚時代』を発表。ほどなくして同名のテレビドラマが放映され、再び人々の間に現代の婚姻問題に関する議論を引き起こした。
『新結婚時代』は、ある家族における三組の結婚の物語である。主人公の顧小西は知識人家庭の出身で、幼い頃から恵まれた環境で育ったが、彼女の夫・何建国は貧しい山間部の農家の出身。育った環境の違いから、2人の生活習慣、価値観が大きく異なり、矛盾や衝突が絶えない。小西の弟の小航は「姐弟恋(年上女性との恋愛)」に夢中になり、恋人の簡佳は、過去に妻帯者と6年間に及ぶつき合いがあったが、小航はこれといって気にかけるわけでもない。最後は小西の父で、母が亡くなると、30代の若い家政婦と「忘年恋(年老いたことも、年の差も気にしない忘年の恋愛)」が生まれる。
視聴者の反応を見ると、劇中の「姐弟恋」も、年齢や雇用関係を超えた「忘年恋」も非難されることなく、かえって多くの人々の理解と同意を得ていることから、さまざまな結婚の形態に対する社会の寛容度が大きく広がっているということがわかる。7年前、同じ王海鴒原作のテレビドラマ『牽手』が放映されたときには、作品が「愛人」の立場に同情的だといって、多くの視聴者から批判が集まった。しかし今日では、そうした批判の声はだんだん小さくなりつつある。恋愛感情に対する人々の受け止め方はより開放的になり、伝統を打ち破った結婚の形にも、理解と承認を示すようになっている。しかし、ここに新たな問題がある。
例えば『新結婚時代』における顧小西と何建国。彼らは都市と農村の格差、家族の反対など、幾重にも立ちはだかる困難を突き破って一緒になった。一般的な論理でいえば、彼らは映画の中のあらゆる困難をなめ尽くした恋人たちと同じように、その後は幸せな生活を送るはずだった。ところが、そうはならなかったのである。結婚後、それぞれの価値観、生活習慣の違いが日常生活のささいなことに反映され、次第に積み重なって広がってゆき、2人の間の矛盾はエスカレートしてゆくばかり。農村で暮らす何建国の両親は、家庭観念が非常に強く、小西と建国との結婚も二つの家庭が結びつくことを意味すると考えているため、困ったときに姻戚の家を頼るのはごく当たり前のことだった。しかし小西の家はそうした考え方に慣れておらず、自分たちの生活が他人にかき乱されると感じてしまう。
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原作者の王海リン |
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このあたりの筋が視聴者の強烈な共感を呼び、一番議論された部分でもあった。多くの視聴者が、何建国と顧小西のこのような話こそ、もっとも真実味があるというメッセージを発したのである。近ごろ中国の都市の人々の考え方は比較的モダンで、自立や個人の価値観を重んじるようになっている。しかし、大部分の農村の人々は依然として比較的伝統的で家庭観念が強い。「都市と農村が結びついた」夫婦の多くは、最初は心が通い合っていたはずなのに、やがて価値観や習慣の違いから不愉快な思いをすることになり、ひいては離婚にまで至ってしまう。その結果、十数年前の「家柄のつりあう結婚」という原則をあらためて持ち出す人も増えてきている。
十数年前、「家柄のつりあう結婚」「男は才能、女は美貌」といった、伝統的な結婚観念からようやく逃れられたばかりの中国人は、とりわけ自由で平等な恋愛を強調するようになった。「男女は平等であり、結婚後も共働きで、家事も一緒にする」「職業は平等であり、労働者も知識人も同じように尊重される」「都市と農村は平等であり、いわゆる生活習慣の違いはなんとか調整できる」
今日、こうした考え方をあらためて否定することが、必ずしももとの場所に戻ってしまうことになるというわけではない。ただ人々は結婚に対する受け止め方が平和的で寛容になるにつれ、新たに別の問題を考え始めたということなのである。自分たちは猛スピードで走りすぎてしまったのではないか? ひたすら伝統に反発してきたことは、果たして幸福をもたらしてくれたのだろうか? 格差というものを、客観的に認めるべきではないか?
「新しいもの」と「旧いもの」が衝突する今、私たちはより深く考えてゆかなくてはならないのである。
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