変わることのない親子の情
日本残留孤児を育てた中国養父母
于文=文・写真

長春市平陽街にある中日友好楼
  1945年8月15日、日本が降伏した後、中国各地に駐留していた日本軍や、住んでいた日本人が逃げ始め、子供を残して帰国した人や、逃げる途中で亡くなった人もいて、残された子供たちは孤児になった。そして善良な中国の人たちは、親と離れ離れになった子供たちを引き取って育てた。

  六十数年後、多くの残留孤児は、日本の親族を見つけ、日本に戻っている。多くの中国の養父母はすでに亡くなっているが、今でも健在な養父母たちは、育てた子どもたちと、切っても切れない親子の情を持ち続けている。 現在の「中日友好楼」  長春にある「中日友好楼」は、主に日本人孤児を育てた中国の養父母のための住まいとして、1989年、日本人の笠貫尚章氏によって建てられた。当初、39人の養父母が住んでいたが、すでに亡くなったり、子どもたちの元に身を寄せる人もいて、今では4人しか住んでいない。

 今年85歳になる崔志栄さんは、最近、ご主人の秦家国さんを亡くし、今は一人で友好楼に住んでいる。崔さんはとても元気で、とてもおしゃべりだ。「子供は日本に帰りましたが、いつも気にかけてよく電話をしてくれます。それに実の息子と娘が世話をしてくれるし、いい生活を送っています。主人が亡くなってからは、やっぱり子どもたちが恋しいですけどね」

 友好楼に住むもう1人の82歳の李淑賢さんは、長年尿毒症を患っている。

 李さんは1943年、ご主人の徐鳳山さんとともに今の長春、当時の新京にやって来た。ある日のこと、日本のビルの入り口を通っていた李さんは、日本の警察に腹部を蹴られ流産してしまう。そして一生、子どもの生めない体になってしまった。

崔志栄さんは85歳の高齢だが、毎日のように部屋の掃除をしている。子供がいないときは、自分で料理も作る
 日本の侵略者に深く傷つけられた李さん。そんな李さんが、1945年に日本孤児を引き取り、「徐桂蘭」と名づけて育て始めた。その後、徐桂蘭さんは自分が日本人であることを知り、1988年にご主人、子供と日本に戻って行った。今、李さんの2人の妹さんが友好楼に住み、3人の老人たちは助け合って暮らしている。

 長年育てた子どもが中国を離れても、当時子どもたちを引き取って育てたことを後悔せず、現在の境遇にも不平をこぼさない。そして、相変わらず日本の子どもたちを気にかけている。 親子の思い  多くの残留孤児は、長年、養父母に育てられた恩を忘れてはいない。杜冬梅さんの養父母への親孝行ぶりは、現地では広く伝えられている。

 66歳の杜冬梅さんは、現在ご主人と、長春の西にある新しい団地に住んでいる。朝は団地を散歩し、午後は親戚や近所の人の家でトランプをしたり世間話をして日々を過ごしている。

 杜冬梅さんの日本名は塩原初美。実の両親は、日本の開拓団の一員だった。1945年、父親はソ連軍の捕虜になり、3歳だった彼女は母親と叔母に連れられ、黒龍江のチャムスから長春にたどり着いて収容所に身を寄せた。しばらくして、母親は重い肺病にかかる。そして亡くなる間際、「この子を中国人に預けてほしい。いい人に引き取って育ててもらえば、もしかしたら生きていけるかもしれない」と叔母に言い残した。その後、杜冬梅さんは、子どものいなかった于世芬さんの家族の一人になった。

 引き取られた当時、杜冬梅さんはとても痩せていて小さく、その上、結核性リンパ節炎を患い、首からは膿が出ていた。近所の人たちは、病気にかかっている子どもを引き取って育てるのは大変だと于世芬さんに忠告したが、小さな子どもを哀れに思った于さんは、翌日、病院に連れて行った。

 そのころ中国では、まだ国産の抗生物質がなく、輸入薬と手術の治療費はかなり高かった。その費用を支払うため、養父の杜鳳山さんは電気工として必死に働き、于さんも家計をやりくりしたが、どんなにがんばっても借金をしなければならなかった。

2006年9月8日、秋田県能代市の日中友好協会の代表が中国の養父母を見舞った(吉林省対外友好協会提供)
 12歳の時、杜冬梅さんの首の膿腫はやっとなくなった。それまでは、杜冬梅さんに栄養を取らせるため、毎月家族全員分の35斤(17.5キロ)のコウリャン全てを食べさせ、祖母さえ、酒かすと豆かすをこねて蒸した窩頭を食べて過ごした。

 「養父母がいなかったら、今の私はいません。その愛は、実の親もかなわないほどです」と杜冬梅さんは語る。

 養父母は、彼女をかわいがっただけでなく、教育にも熱心だった。戦乱中の長春は決して安全とは言えず、養父は毎日彼女を背負って学校まで送って行った。養父はかつて「彼女を背負っても、大学に進学させる」と言ったことがある。杜冬梅さんは吉林省の白求恩医科大学に合格して、養父の約束を果たした。大学を卒業して外科医師になった杜冬梅さんは、結婚して2人の息子をもうけ、幸せな日々を送っていた。 一緒に暮らすために  1979年、3歳の時に別れた叔母が曲折を経て杜冬梅さんを探し出した。当時の規定では、残留孤児と確認された人は、配偶者と自分が生んだ子どもとしか日本へ戻れない。杜冬梅さんの養父母は、養女と別れづらく、杜冬梅さんも養父母を残して日本に帰るのは忍びなかった。彼女は、しばらく日本で親族を訪ねた後、再び長春に戻ってきた。

杜冬梅さんは、すでに日本のパスポートを持っているが、晩年はご主人と長春で過ごすことに決めている
 1991年、2人の息子により高い教育を受けさせるため、杜冬梅さんはご主人、息子たちと日本に帰った。そして2カ月後、杜冬梅さんは養父の手紙を手にする。そこには、「みんなが日本にいってしまい、本当にお前たちに会いたい。衣食は足りているが、足りないのは、お前たち4人だ」と書かれ、それを読んだ家族はみな涙した。

 当時、杜冬梅さんたちは、19家族の残留孤児たちと、東京のある学校で日本語を勉強していた。毎月、支援金の16万円でどうにか生活していたが、早く養父母を日本に引き寄せるため、杜冬梅さん夫妻は勉強をやめ、毎日、10時間以上働いてお金を稼いだ。そして、養父母の永住手続きをするために奔走した。

 しかし日本の法律では、帰国した残留孤児と血縁関係のない人は、永住手続きができない。杜冬梅さんは、思いつく全ての手段を講じ、ついに養父母のために親族訪問の手続きをした。そして1992年10月、やっとのことで杜冬梅さん家族は、東京で一緒に暮らすことができた。

 その2年後の1994年に、養父がこの世を去る。杜冬梅さんは、養父に中国の地で最後を迎えさせてあげられなかったことが心残りだった。そして日増しに衰える養母を見て、杜冬梅夫妻は養母を連れて長春へ戻り、最後まで面倒を見ることを決心した。

 養母は、2005年9月、90歳で亡くなり、養父の遺骨とともに、長春の郊外で眠っている。養父母が中国の地に戻ることができ、杜冬梅さんの願いはかなった。

 今、日本にいる長男は、電子設備の設計士、次男は機械設計士になり、豊かな生活を送っている。2人の息子はとても親孝行で、日本で両親と暮らしたいと言っているが、杜冬梅さんは中国の生活が好きだし、息子たちに面倒をかけたくないため、長春で晩年を過ごすことにしている。2人の息子は、両親のためにマンションを買い、毎年のように両親に会いに中国へ帰ってくる。「親孝行というのは、代々伝わっていくものなのですね」と、杜冬梅さんは少し誇らしげだった。

数年前までは、友好楼の入り口に座って日向ぼっこをし、隣人と世間話をする養父母の姿が見られた(長春市人民政府新聞弁公室提供)
  育てられた恩がつなぐ友好の心  多くの残留孤児は様々な原因で、杜冬梅さんのようにずっと養父母のそばにいることはできない。そのため、両国を往復して高齢な養父母を見舞い、お金や生活用品を送って、両親を養う責任を果たしている。また中国で投資して工場を作り、現地の経済発展を支持する人もいる。

 1999年8月、1450人の残留孤児が資金を出し合って建てた、「中国養父母感謝の碑」が瀋陽で完成した。碑文には、「日中両国の末永い平和と友好を心より願い、中国の養父母に誠意を尽くす。そして中国の養父母の偉大な精神と崇高な行動を永遠に称え、後世の人が同じ歴史の轍を踏まないようにするため、ここにこの碑を建てる」と記されている。

 中国の養父母と日本の残留孤児の物語は、多くの日本人の心を打っている。ある日本人は、孤児を育ててくれた中国の人の恩に報いるために、「希望小学校」に寄付をしたり、中国の養父母の生活条件を改善するために、駆け回って資金を集めたりしている。

 2006年9月8日、秋田県能代市から田栄喜一さんら4人が、中日友好楼に住んでいる4人の養父母を見舞った。田栄さんは「日本で、帰国した残留孤児が中国の養父母のことを話しているのをいつも聞いていましたが、今日、この尊敬すべきお年寄りたちにお会いすることができ、感動でいっぱいです」と述べた。

 そして田栄さんは能代市日中友好協会を代表し、養父母たちに50万円を寄付した。

 十数年後、養父母たちは私たちの前からいなくなってしまうだろうが、中日両国の間の友情は、ずっと続いてゆくだろう。

データ

 残留孤児は、1945年、日本が敗戦した後、中国に遺棄され、中国人に育てられ成人した日本人孤児のこと。残留孤児のほとんどは日本開拓団の子どもたちで、その数は4000人以上に上る。中国の29の省、直轄市、自治区に散らばり、その90%が東北地方の三省と内蒙古自治区に集中している。

 1950年代の初め、数人の残留孤児は、肉親捜しの活動を始めた。60年代になると、一部の日本人と民間団体が、中日友好協会、中国赤十字会の訪日代表団、在中の日本人などの組織と個人を通して、肉親捜しの活動を始める。そして1972年9月、中国と日本が国交正常化し、両国各界の友好の行き来が増えると、日本の親族は、直接または間接的に中国へ子どもや兄弟に会いに来るようになった。また残留孤児も、日本へ行き、長年離れていた肉親を探し始めた。

 1978年8月『中日平和友好条約』が調印され、1981年から、両国政府の関連部門は費用負担し、何度かに分けて、肉親捜しの訪日を行うようになった。2000年までに、両国政府が行った訪日調査は31回に上り、日本へ行った2121人の残留孤児の中で、666人が親族と再会を果たした。そして身元が確認された人は、次々と日本へ帰国し定住した。日本の厚生労働省の資料によると、1972年から1995年、日本に定住した残留孤児は2171人で、その配偶者と子女の数は、7801人になっている。


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