劉世昭=文・写真


瀋陽故宮の平面図
大政殿の外観


大政殿内の天井には、竜の図案とその周囲の木彫りの垂れ幕、内部の柱をつなげる透かし彫りの板が、きらびやかに輝いている。中国の宮殿建築において、他に例を見ないものである
 
 

  瀋陽故宮は、盛京皇宮とも呼ばれ、清の太祖ヌルハチ(1559〜1626年)と清の太宗ホンタイジ(1592〜1643年)によって、元、明朝の旧城を基礎に建立された。その建設は1624年に始まり、1636年に完成した。1644年、清の世祖順治帝(1638〜1661年)が北京に遷都した後には、清王朝の副都宮殿となった。

瀋陽故宮の正門――大清門
 中国に現存する古代帝王の大型宮殿の建築群は、北京の故宮と遼寧省瀋陽市の瀋陽故宮の2カ所のみである。

 瀋陽故宮には百以上の建築物があり、中路、東路、西路という三つの部分に分けられる。中でも重要な建物として、四殿(大政殿、崇政殿、迪光殿、頤和殿)、七宮(清寧宮、関雎宮、麟趾宮、衍慶宮、永福宮、介祉宮、保極宮)、四楼(鳳凰楼、日華楼、霞綺楼、転角楼)、五閣(飛竜閣、翔鳳閣、崇謨閣、敬典閣、文溯閣)、四斎(継思斎、師善斎、協中斎、仰熙斎)、一廟(太廟)がある。総建築面積は7万平方メートルあまりに及ぶ。

 瀋陽故宮の広大な建築群のうち、東路に位置する大政殿はもっとも早く建てられたもので、満州族の特色がもっとも濃厚な建物である。清代初期の皇帝が重大な式典を執り行う場所で、宮殿群における主要建築となっている。

大政殿の外側の木造の軒は、チベット仏教の建築特色を備えた獣面彫塑も参考にしている
 帳殿式という独特な建築様式が採用されている大政殿から、満州族が草原のテント文化に源を発し、満州、漢、チベット、蒙古など諸民族の文化を内包し、その建築特徴も融合させたものとなっていることがわかる。宮殿の高さは19メートルあり、外から見ると八角形をしている。真正面の両柱には、それぞれ、頭を高く上げ、爪を振るい、躍如として真に迫った金色の竜がからみついている。中に入ると、中央の八本の盤竜柱(竜がからみついている柱)に囲まれた台座の上に、木彫りに金泥の施された玉座が設けられている。天井の中央には竜の図案が刻まれ、そのまわりに、垂れ幕、福、禄、寿、喜の文字図案、そして円型のサンスクリットの木彫りが施されている。宮殿全体は極彩色に光り輝き、壮大な威厳を放っている。当時、即位したばかりの清の太宗ホンタイジは、文武百官の前で明朝の「勅書」を焼却し、明朝との決別を宣告した。1644年、順治帝はここで出兵令を発し、山海関を攻め落としてまっしぐらに中原に攻め入り、清王朝による中国統一という大業を遂げた。

 大政殿の両側には、星が月にひれふすように、まったく建築様式を同じくする方形の亭がそれぞれ五つずつ並んでいる。左、右翼王亭及び八旗亭で、合わせて十王亭と呼ばれる。十王亭と大政殿との組み合わせは、清朝初期の八旗制度の「君臣合署弁事(君臣が同じ場所で執務する)」という歴史の証拠となり、テント文化のしるしをもはっきりと留めるものである。八旗制度は清の太祖ヌルハチによって、1601年に創建された。八旗とは、黄、白、紅、藍、ジョウ黄(黄色地に赤色のふちどり)、ジョウ白(白地に赤色のふちどり)、ジョウ紅(赤地に白色のふちどり)、ジョウ藍(青地に赤色のふちどり)の色の軍旗を象徴とする、軍、政、宗族を一つにした単位で、八旗制度とは、旗によって軍隊を統率し、民衆を統治し、行政、経済、宗族を管理する制度なのである。軍政制度が建築に溶け込んだこの構造配置は、中国において唯一のものである。

崇政殿
 瀋陽故宮の正門は、中路に位置する大清門である。そこを入ってゆくと、真正面に当時の御殿――崇政殿が見える。

 崇政殿は1626年に建造が始まり、1635年に落成した。ホンタイジの在位中、ここが政務を行う場所であった。崇政殿でもっとも注意を引くのは、その屋根の棟木と破風、「チ頭」(切り妻壁のふちどり部分)に、五彩瑠璃の浮き彫りが施されていることである。これは他の宮殿建築においては、めったに見られないものである。

崇政殿内にある透かし彫りの竜紋の玉座
 崇政殿の背後に、高さ約4メートルの高台がある。その正面に3層の「重檐式」建築の、鳳凰楼と名づけられた楼閣があり、当時の盛京でもっとも高い建物であった。盛京八景の一つ、「鳳楼暁日」はここを指している。鳳凰楼は後宮に入るための正門でもあり、後宮はこの高台に建てられている。

 ここに来て、北京故宮との違いに気づくはずだ。北京の故宮では、太和殿などの三大宮殿は高い漢白玉(白い大理石)の台の上に建てられているが、皇帝と皇后の生活区である内廷の建築はかなり低くなっており、皇帝の権力こそ至高であるという中原の建築文化を体現している。瀋陽故宮の中路において、生活区の内廷が高台に建てられたのは、当時満州族も含む草原の各民族が長い間戦争の状態にあり、強い防御機能をもつ高台に駐屯地を設けることに慣れているという独特な建築文化を表すものである。中路の建築のスタイルは、全盛期の満州族が発展の過程において、中原のさまざまな文化を融合させてきたことを体現している。

清寧宮前の庭に立つ「索倫竿」
 石段を上り、鳳凰楼の中門を抜けて後宮に入る。その真ん中にある宮殿・清寧宮はホンタイジと皇后・ボルチジの寝室である。両側にはそれぞれ妃と宮女の寝室があり、東側に関雎宮と衍慶宮、東配殿、西側に麟趾宮と永福宮、西配殿がある。興味深いのは、後宮の庭に立っている、約3メートル高さの木の棒である。これは「索倫竿」と呼ばれ、竿の上には錫製の斗があり、下の方は約1メートル高さの石台になっている。言い伝えによれば、清の皇帝の始祖である愛新覚羅の一族は、部族の叛乱に遭い、一族郎党皆殺しにされた。一人だけ男の子が残って逃げ出したが、すぐに追っ手が迫り、もはや力尽きてしまったとき、空から一群のカラスが飛んできて追っ手を引きつけ、男の子は命拾いをした。こうして、愛新覚羅氏の子孫は生きながらえ繁栄することができたのだった。命の恩人であるカラスに感謝の気持ちをこめて、愛新覚羅の子孫はカラスを神鳥とあがめ、家の前に索倫竿を立て、神鳥を飼い、天神を祭った。この風習は、清朝の皇室と民間の満州族の間で広く行われた。

皇帝と皇后の寝室――清寧宮
 清寧宮の門は、中原の建築とは異なり、真ん中に位置するのではなく、東寄りの「東次間」に設けられている。このような建築様式は俗に「口袋房」と称される。宮殿の内部は、壁によって東西二つの部分に分けられている。小さい方の東間は暖閣といい、皇帝と皇后の寝室であり、大きい方の西間は母屋とされている。暖閣の内部には、南北両側に「竜床」というオンドルがある。夏は北側のオンドルで涼み、冬は南側のオンドルで温まる。母屋の南、北、西側にも、満州族の伝統的な建築様式に照らして、それぞれオンドルが設けられている。この構造は「万字コウ」と呼ばれる。当時、ホンタイジはここで度々皇族たちを引見し、満州族の原始宗教・シャーマニズムの祭祀行事を行った。宮殿の後ろに、一本の高い煙突がそびえ立っているのも興味深い。これは冬季に清寧宮で用いる、オンドル、火牆(内部を伝わる煙の熱で暖を取るようになっている壁)を焚くときの排煙道である。清寧宮の建築構造は、「口袋房があり、万字コウがあり、煙突が地面に立っている」という満州族の伝統的な民家のスタイルを完全に体現したものとなっている。

鳳凰楼
 清寧宮の前の庭の西南の隅にある永福宮は、ホンタイジの荘妃・ブムブタイの寝室である。荘妃は清の世祖順治帝の母であり、この宮殿で順治帝を産んだ。中国の歴史において、荘妃は夫のホンタイジ、息子の順治、孫の康熙(在位1662〜1722年)の三代皇帝を相次いで補佐し、清王朝の振興、統治、強化に大いに貢献した。

 瀋陽故宮の西路の建物と東所、西所は清の乾隆11年(1746年)から48年(1783年)の間に建てられたものである。清の康煕・乾隆年間、国内は政治的に安定し、経済的にも繁栄していた。そこで乾隆帝は、大量の労力と資金を惜しみなく注ぎ込み、瀋陽故宮の大規模な増築を行った。これらの建築様式は、東路と中路の建築からほど遠いもので、中原の建築により近づいたものとなっている。

西路に位置する迪光殿は乾隆年間に建てられたもので、清の皇帝の瀋陽巡視の際、軍事と政治の要務を処理する場所でもある
 乾隆帝は4400人あまりを動員し、15年の歳月を経て、3503種、7万9337巻の書籍を集めた叢書・『四庫全書』七部を編纂、清書し、北京・故宮の文淵閣と北京・円明園の文源閣、河北・承徳の文津閣、江蘇・揚州の文匯閣、江蘇・鎮江の文宗閣、浙江・杭州の文瀾閣、瀋陽・故宮西路の文溯閣にそれぞれ収蔵した。浙江・寧波の天一閣に似せて造った文溯閣は乾隆47年(1782年)に建てられ、第2部の『四庫全書』を収蔵した。この200年来、外敵の侵入と戦乱で、7部の『四庫全書』は激しい損害を受け、現存するのは三部半のみである。非常に希有なことに、文溯閣に保存されていた一部はあちこちを転々としていたが、現在は本来の場所に完全な形で保存され、「書閣合一(書籍がもともと収蔵された建物に戻ること)」である唯一の一部となっている。

 267年にわたる清王朝の歴史において、瀋陽故宮は清王朝の興起と繁栄、衰微を証明するものであり、中国の各民族文化がしだいに溶け合っていった証拠でもある。

.順治帝の出生地であり、孝荘皇后(荘妃)の住まいであった永福宮の内部
文溯閣の内部
瀋陽故宮の外にある文徳坊(手前)と武功坊
清寧宮の後方にある後苑は、かつて皇宮の倉庫と台所であった

 
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