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大運河を行く砂利運搬船(左) 今日でも大運河は、地域水上輸送の幹線として機能している。この写真は、円仁が昼食のために立ち寄った山陽県の方角に向かう橋の上で撮った1枚である。
淮河と大運河を結ぶ水門(右) 楚州の重要性は、淮河と大運河が交差する地の利にあった。船舶は直接海から出入りして淮河を進み、楚州の水門を通過して中国大陸の広大な運河網へと入ることができた。現在でも、ここは1200年前と少しも変わらず、頻繁に船が行き交っている。ここで、淮河から来た船が水門を抜けて大運河へと入っていく。円仁が幾度か楚州を通過する度に、彼を乗せた舟もまた同じ動きをしたことであろう。
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円仁は、ついに天台山(現在の浙江省)での修行を許可されなかった。もはや、遣唐使一行とともに十隻の小舟に分乗して大運河沿いに北へ進み、一行を日本へ運ぶ船が待ち受けている場所へ向かう以外、道は無かった。839年旧暦2月24日、一行は昼食をとるために山陽県に立ち寄った。このとき、円仁は、「午後5時、城壁を廻らした楚州に着いた。……我々は開元寺に行き西の亭に宿泊した」と記している。一行はこの地に一カ月ばかり滞在した。円仁は巡礼中、この地を5回も通過することになる。
現在、楚州は周恩来総理の故郷として知られる江蘇省淮安市の一部である。
唐時代、楚州には新羅人居住者が非常に多く、新羅事務を扱う監視官が常駐していたほどであった。監視官には通常新羅人がなり、日本人巡礼者をも管轄した。「新羅人はある程度の治外法権を持っていた」と円仁は記している。大きな新羅人居住区は新羅人長老の支配下にあり、円仁はしばしばその恩義に預かった。
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唐代総督漕運公署遺跡 水上交通管理監察庁は、唐代にあっては絶大な権力を持つ役所であった。円仁とその従者たちは、こうした官庁の手配のおかげで、水路通行の許可を得ることができたのである。現在、遺跡は一般に開放されている。私は、子どもたちが古い礎石の上で気ままに遊んだり、遺跡内の気に入りの場所で凧揚げしたりしているのを見て驚いたが、これは若い世代を古いものに溶け込ませるにはよい方法だろう。 |
彼らは、いったん日本人僧を庇護しようと決めると、危険を承知で引き受けた。楚州の新羅人劉慎言は、通詞として円仁を助けただけではなく、通詞の域を出て日本人の使命達成を支援した。円仁は劉慎言に「沙金大二両と大坂腰帯ひとつ」を贈った。この気前のよすぎる贈物から察するに、円仁はすでに中国残留について、劉に依頼していたのかもしれない。劉は円仁に対し、その後の滞在中、各地の新羅人社会を安全に通過できる通行証を与え、さらに新羅人地区に滞在するようにと勧めた。
淮安で、私は淮安市府の歴史家、荀氏に出会い、唐代遺跡についていろいろと教えていただいた。こうして私は、昔の新羅人居住区が、現在の淮安歴史博物館のすぐ裏手にあるのを知ることができた。
楚州の開元寺に滞在中、一行は留学僧円載禅師が天台山国清寺で学ぶ勅許を得たと知らされた。そこで円仁は、天台宗高僧に教えを請うため、日本で準備してきた仏教に関する疑問集二冊と、比叡山延暦寺座主から国清寺大座主に贈られる衲袈裟とを円載に託した。円仁は「我々は別れを惜しんでいたみ悲しんだ」と書いている。
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文通塔 塔の北側は、唐代政庁「衛門」遺跡である。円仁は839年、845年、847年にこの地を通過した際、城内滞在延長を求めてこの役所にあれこれと滞在許可願いを出したが、ほとんど拒絶された。それに比べると、私は暖かく迎えられた。敷地内には立派なレストランがある。昼食後、塔の裏手をぶらぶら歩いてみたところ、かつての「衛門」敷地内には家々が立ち並んでいた。 |
円仁が、中国に留まるために他の方法を講じようと決意したのは、この時であったと、私は考える。彼の請願に対して朝廷が拒否したものを、上訴することはできなかった。しかし、彼は楚州滞在中に、新羅人社会には地方役人と交渉する特殊なルートがあり、かつ新羅人たちは、彼の目的に手を差しのべようとしていることを知った。
遣唐使もこう述べている。「もし唐に留まりたいと願うのであれば、それは仏道のためであろう。私は、敢えてその決意に反対はしない」。このように、楚州は水上交通の十字路であったのみならず、円仁が方針を変えようと決意した思考の十字路でもあったと、私は見ている。
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