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軽快に舞うダイ族の娘 |
「茶馬古道」は、中国西南部の辺境に位置し、雲南・チベットルートと四川・チベットルートに分けられる。シルクロード、唐蕃古道と同様、中国西南部辺境に通じる古代の重要な商業貿易ルートであった。
史書によると、雲南・チベットルートは、唐(618〜907年)の時代から存在していたが、当初は軍事目的で開通したという。大暦14年(779年)、吐蕃と南詔の20万人の連合軍は、「東府」を建立しようと三隊に分かれて成都を攻めることになった。そのため吐蕃軍は、横断山脈に兵隊を通らせるための網状の桟道を、苦労して切り開いた。
後晋の天福2年(937年)、段思平が大理国を建てた。雲南最強の封建集権統治者となった彼は、現地の経済の発展も促した。
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曼聴公園の前で行われた、「茶馬古道国際文化の旅」の出発式に、幸福を祈り、読経してくれた僧侶たち |
当時、大理国は宋と大規模な通商を行っていたため、吐蕃と大理国の貿易関係は途切れることがないだけでなく、ますます拡大されていった。大理国は、主に内陸へ馬や牛、羊、鶏などの家畜のほかに、刀、フェルト、甲冑、漆器などの日用、軍用品、それに麝香、熊胆などの貴重な生薬を輸出。そのかわりに、内陸から漢文の書籍や絹織物、磁器、漢方薬材、金属細工などを輸入した。吐蕃はこうした貿易を通じて、農牧に使う機具と刃物を造る鉄、及び茶、布地、砂糖などを購入した。
北宋(960〜1127年)の後期、長期にわたって雲南北西部に暮らしていた「磨些」(現在のナシ族)が、麗江で勢力を拡大、吐蕃の境界までその勢力を伸ばし、周辺の貿易ルートを開拓していった。宣和元年(1119年)前後になると、磨些は大理国に取って代わって吐蕃との直接の貿易関係を築き、雲南北西部の中継地としての地位を確立した。
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1961年、シーサンパンナの水掛け祭りに参加した周恩来総理を記念して、曼聴公園に建てられた周恩来像 |
明の洪武15年(1382年)、磨些の首領は「木」という姓を賜り、その翌年にはさらに麗江の知府に任命された。その後、歴代の木氏土司(少数民族の首領)は、百年以上の貿易往来を通じて、戦時に使われた雲南・チベットルートの桟道を、商品輸送を中心とした通商ルートとして発展させた。
清の順治18年(1661年)、朝廷はチベットが雲南の北勝(現在の永勝)で通商することを許した。康熙21年(1682年)、さらに中甸(現在のシャングリラ)での通商も許可した。1688年、康熙帝は、雲南・貴州の総督が中甸に茶の関所を設けることを許可した。このことによって、さらに多くの茶や馬を販売する商人が集まるようになった。最盛期には、ここを往来するキャラバンの家畜の数は一万頭以上に達した。この通商ルートは朝廷の認可を受けていたため、正式な通商地があり、優遇政策を受けた。こうして、「茶馬古道」雲南・チベットルートの貿易は、迅速に発展していった。
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「茶馬古道国際文化の旅」は、シーサンパンナから始まった |
10月12日、景洪市にある曼聴公園の前で、非常に特色のある出発式が行われた。陽気な象脚鼓(ダイ族が用いる楽器。象の足の形をした太鼓)のリズムに乗って、しなやかで美しいダイ族の娘が軽快に舞い、袈裟をまとった僧侶が、木魚の音にあわせて読経し、幸福を祈ってくれる……11台のジープからなる車列は、音楽と祈祷の声を背に、勇ましく出発した。
計画に沿って、シーサンパンナを発ち、北上して昆明に至り、さらにキャラバンの足跡をたどって、西の大理までやってきた。さらに、大理から北上してシャングリラに入り、徳欽を経てチベットのツァカロに入った後、東から西へと向かってニンティやラサ、シガツェを横切り、西南に方向転換し、ティンリとニャラムにたどり着いた。最後は、ザンムのイミグレーションで国境を越え、ネパールの首都カトマンズ、ポカラと釈迦の誕生地ルンビニを訪れた。
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景洪の市街地を通過する「茶馬古道国際文化の旅」の車列 |
「茶馬古道」の探索途中、地形は著しく変化し、厳しい寒さとひどい暑さを体験した。海抜の落差は最大で4900メートルに達した。シーサンパンナの野象谷から蒼山やジ海のある大理古城、剣川の沙渓古鎮から玉竜雪山(5596メートル)の麓の麗江古城も訪れた。金沙江に沿って憧れのシャングリラへも入り、梅里雪山(6740メートル)では一面に朝焼けに染まった壮麗な景色も目にした。瀾滄江と怒江を渡り、バルン・ズァンボ川が流れ、天険の地・タンメを抜け、ヤルン・ズァンボ川の大峡谷やナムチャバルワ峰(7756メートル)、シシャパンマ峰(8027メートル)では、神山や聖水の魅力とその雄大な姿を楽しみ……「茶馬古道」の、絵のような美しい景色と独特な風土や人情が、素晴らしい印象を深く心に刻み込んだ。