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燕十三=文 周天=写真 |
対局の場所を求めて
西原口晃さんは2005年10月、駐在員として北京へやってきた。北京に赴任してから、仕事も生活もすべて順調だが、ひとつだけ残念に思うことがあった。それは囲碁を打つ適当な場所がないことだった。 東京にいたころは、会社の近くに囲碁を打つ場所がいくつかあった。日本棋院の施設には毎日たくさんの愛好者が集まり、対局していた。しかし北京では、囲碁を打ちたいと思っても、会社のクラブか自宅しかなく、対局相手はいつも限られていた。北京に赴任してまもなく、「北京囲碁同好会」の幹事になった西原口さんは、同好会のメンバーたちも同じような悩みを持っていることを知った。 2006年5月、同好会のメンバーの松谷さんがよい知らせを持ってきた。囲碁を打つよい場所をみつけたというのだ。それは、オープンして間もない囲碁サロン「天地間」だった。 愛好者のために
「天地間」という名は、中国で最も権威ある囲碁雑誌『囲碁天地』に由来する。 『囲碁天地』の編集部には、中国全土および世界各地から囲碁の愛好者がよく訪ねて来る。時にはそこで対局することもある。 しかし今後もずっと編集部内で囲碁を打つわけにはいかない。しかも、北京には囲碁好きたちが対局したりくつろいだりするところが少ない。そう思った編集部は、新しく移転した社の向かいに囲碁サロン「天地間」を設立した。
松谷さんの案内で初めて「天地間」の門をくぐった西原口さんの目に、まず飛び込んできたのは、川端康成の筆跡の「深奥幽玄」という文字。この四文字を見て、故郷の旧友に会ったような親しみを感じた。これが複製品であることはもちろん知っている。「深奥幽玄」の本物の掛け軸は、日本棋院の特別対局室「幽玄の間」にあるのだから。しかし、壁にかかっているその他の書は正真正銘の本物だ。 NHKドラマ『大地の子』の養父役で日本でもおなじみの朱旭さんは、王安石の囲碁を詠んだ詩を自らの手で記し、オープン式典の際に贈呈した。中国囲棋協会前主席の陳祖徳九段は、「天地間」で開催された出版サイン会や囲碁を教えにやって来た際に「以棋会友」と記した書を記念に残した。 また、門に掲げられた「天地間」の書は日本の有名な書家、大井錦亭先生によるものだ。日本文化界囲碁訪問団とともに「天地間」を訪れた際に書いてくれた。 一流の環境と用具
ロビーの南側にある大きなガラス窓からは、天壇公園の祈年殿が見える。窓の下の本棚には各種の書籍が整然と並んでいる。窓辺に静かに座り、雨の日や風の日はお茶を片手にページをめくったり、晴れた冬の日のたそがれ時は陽の光を浴びたりと、囲碁を打たなくても十分楽しめる。 ロビーの北側は対局室だ。日本風にしつらえられた部屋もある。対局室に入ると、これまでの無数の大勝負が自然と頭の中に思い浮かぶ。 このように環境が整っているうえ、利用料金も高くはない。日本の囲碁会館のほぼ半額だ。西原口さんにとってさらにうれしいことに、中国でよく見る「雲子」(雲南省特産の碁石)だけでなく、日本の本蛤碁石も用意されている。 「天地間」の主な目的は囲碁文化の普及。そのため、ここの囲碁用具は日本から取り寄せたものも少なくない。隣にある囲碁用具の専門店では、囲碁に関する書籍や商品のほか、日本の老舗・黒木碁石店の製品も販売している。 中日交流の場として
遠く離れた北京に、日本と比べて遜色のない、それ以上ともいえる囲碁サロンがあるとは思ってもみなかった西原口さんは、半年のうちに4回もここを訪れた。そのうちの2回は、同好会と中国の会員との対抗戦を開催。2回とも敗戦に終わったが、同好会のメンバーたちはとても喜んだ。囲碁の腕を磨けただけでなく、中国の愛好者たちの友情と熱意を感じ、よき友に出会えたからだ。言葉が通じなくても、囲碁は最高のコミュニケーションの手段なのだ。
『囲碁天地』の特約記者で、中日合作映画『未完の対局』の脚本を担当した李洪洲さんは、この対抗戦のことを耳にしたとき、手元の仕事を放り出してすぐに参戦したいとやってきた。日本側にとっては「手ごわい相手」だった。対抗戦が終わっても、みんな長い間対局をふり返り、なかなか立ち去ろうとしなかった。 囲碁好きにとって、囲碁を打つことは最高の楽しみだ。楽しい時間はいつもあっという間に終わる。同好会のメンバーたちは次の試合が待ち遠しい。勝ち負けは重要ではない。とはいっても、メンバーの松谷さんはこっそりと、次の対局相手はもう少し弱い人にしてくれと頼んできたが……。 |
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