|
サインをねだる若いファン。左は筆者の許金龍氏 |
昨年9月に大江健三郎氏が訪中、また12月には芥川賞作家の中村文則氏をはじめとする20代、30代の若手作家が北京で中国の同世代の作家と交流。その「中日青年作家対話会」の企画者の一人であり、大江氏の訪中では通訳を務め、数々の大江健三郎作品の中国語翻訳者でもある中国社会科学院の日本文学研究者許金竜氏が、若者の未来へ希望を託した大江氏の思いとともに、2006年の中日文学交流を振り返った。(編集部)
このタイトルはもともと、中国社会科学院の招きに応じて、訪中は5度目となる大江健三郎先生が、2006年9月10日、北京大学付属中学で行った講演のものである。遡ること1921年1月、魯迅先生が発表した短篇小説『故郷』にも、同様の記述を見ることができる。
「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(ちくま文庫『魯迅文集』竹内好・訳)
さらに遡れば、魯迅先生が1919年11月1日に発表した文章『生命の路』の中にも、同じような表現が見られる。
「路とは何か。それは、かつて道のなかったところに踏みつくられたものだ。かつて荊棘しかなかったところに切りひらかれたものだ」(学研『魯迅全集』伊藤虎丸・訳)
|
北京大学付属中学で行われた講演。約600人の中学生が参加 |
中日関係が停滞期にあった2006年、まさに「荊棘しかなかったところに切りひらかれた」道を歩いているのが大江先生である。
北京大学付属中学での講演の朝、大江先生の朝食の量は普段より明らかに多かった。先生は不思議そうな私の視線に気づくと、奥様に言い聞かされたのだと教えてくれた。「昨晩妻から電話があって、体力をつけるために、今日はいつもよりたくさん朝ごはんを食べなさいといわれたのですよ。日本のために、子供たちのために、未来のために。全力でこの講演を成功させるようにと……」そう言って、先生はにわかに表情を引き締めた。昨年七月末に成城のお宅にスケジュールの打ち合わせにお邪魔したとき、私はすでに先生から聞かされていた。自分は生涯無数の講演を行ってきたが、北京大学付属中学のこの講演は、その無数の講演の中でも最も重要な講演のひとつになると考えている、と。
北京大学付属中学へ向かう途中、大江先生がどこか落ち着きがなく、両手をこすったり、無意識に車の手すりをつかんだりしていることに気づいた。これまでの度重なる中国訪問において、先生は講演や学術会議などさまざまなイベントに参加してきたが、このようなことは初めてだった。私はそっと先生に申し上げた。今日は子供たち相手の講演ですから、そんなに緊張される必要はありませんよ、と。先生は儀礼的にちょっと笑っただけで、それ以上何も言わなかった。
|
興味津々の生徒たち |
学校に到着し、康健校長の案内で講堂の外の廊下までやってくると、ふいに先生はもともとひどくゆっくりだった歩みを止めた。明らかに落ち着きがなくなり、一旦控え室に行ってもよいかと尋ねた。「もう一度、一人になって気を静めたい」という。先生が誰もいない部屋に入ると、私はそっとドアを閉め、校長と一緒にドアから少し離れたところで静かに待った。このときの先生の気持ちが、私には理解できた。数日前の夜、私は先生が中国の子供たちの前で発表する講演原稿「歩く人が多くなれば、それが道になる」を翻訳していた。最後の部分を訳し終わったとき、目から涙が流れ落ちた。相互理解と尊重の基礎の上に和解を実現しようという、真心をこめた先生の願いに私は深く感動していた。講演原稿の中で、先生は旧友、アメリカの文学研究者であるエドワード・サイードの観点を引用している。「学者や、ジャーナリスト、小説家、詩人、音楽家、画家といった人たちは、それぞれの専門分野の中で、自分の積み上げた知識や技能によって仕事をします。しかし、自分たちの社会の進み行きがよくない時、その専門分野から離れて、社会、国、世界のことを心配するアマチュアとして集まり、発言しなければならない。それが、知識人の本来の職務だ、というのです」。そして、「一人の知識人として、日本の社会の進み行きについて心配することについて、自分の信頼している人たちと共に発言してきました」というのが大江先生ご自身なのである。
そして今、学生たちの前でなかなか鳴りやまない熱烈な拍手の中、先生は北京大学付属中学の演壇に上がり、中国の子供たちに向かって自分の声で率直に語った。「今日本と中国の関係はよくありません。(中略)そうした状況のなかで、日本と中国の若い人たちの間の未来が、本当の和解、その上での協働によって、すばらしいものになることが、どうしても必要だ、と私は考えます」
|
北京市内の書店でのサイン会につめかける中国の記者とファンたち |
演説の終わりに、先生は演壇の下の子供たちに向かってしみじみと言った。「皆さん方は若い中国人です。過去よりも、いま現在よりも、未来にこそより長く生きる人たちです。私が東京に帰って話しかけたい、と考えている若い日本人も同じく未来の側にいる人たちです。皆さんは私のような老人と違って、まっすぐ未来に向かって生きなければなりません。その未来が暗く、恐しく、非人間的なものとなるならば、その未来の世界で、誰よりも苦しまねばならないのは、若いあなたたちです。そのような未来でなく、明るく、生き生きとして、本当に人間らしい未来を、いま現在の中でつくりだしてゆかなければなりません。そのことを希望し、その現実を信じている、ということを、北京の若い人たちに、また東京の若い人たちに申しのべるために、私は老年の身体を北京に運んできました。それは、71歳になった日本の小説家として、70年前に亡くなった、明らかに20世紀最大の小説家の一人である魯迅先生の言葉を、私がいまも強く信じているということを、お伝えするためです。東京に帰っても、同じことをする、と約束します」
「北京の若い皆さんと、東京の若い人たちに、本当の和解とその上での協働が行われてゆく時にだけ、この魯迅の言葉は現実のものとなるのです。そのような未来を、いま作って行ってください!」やがて先生はゆっくりと、けれど厳かに魯迅の『故郷』の結びの文を引用して読み上げた。「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」
講演のときの厳粛さに比べて、その後の校内の文学クラブの子供たちとの座談会はかなり気楽なものとなった。ある生徒が『死者の奢り』におけるたくさんのホルマリン漬けの死体の場面について、どうしてこのようなイメージが作者に生まれたのかと質問すると、先生は大きな声で朗らかに笑い出した。そして、当時の自分は東京大学文学部フランス文学科の学生であって医学部の学生ではなかったから、医学部からそのような啓示を受けたわけではないということをその生徒に告げた。実は公衆浴場で風呂に入ったときの体験からインスピレーションを得た、湯船に浮かぶさまざまな形の裸の入浴者からの連想であるという。やがて、それが『死者の奢り』に登場する描写になったのだった。
最後に発言した女子学生の袁霽月さんによる「わたしの童子―『憂い顔の童子』を読んで」と題した詩に、大江先生の表情は再び引き締まった。この詩の中で彼女は、永遠に子供のままの森の中の童子と自分もまた似ているところがあり、すぐに無邪気な世界に別れを告げて、自分を待っているその「凶悪と貪婪」の社会に入ってゆかなくてはならないと考えていた。この詩が大江先生の子供の頃の記憶を呼び覚まし、先生は自分の経験と「人間の凶悪と貪婪」の時代について話し始めた。別れ際に毛筆で厳かに書き残したのは、「好ましきものを鞠育し、邪なるものを絶滅せしむ」という言葉であった。
|
北京大学付属中学に記念に残した色紙をかかげる大江氏 |
もし、大江先生が「荊棘しかなかったところに切りひらかれた」道の開拓者ならば、先生が「歩く人が多くなれば、それが道になる」と題した講演の3カ月後、正確に言えば、2006年12月23日から25日、北京で開催された「明日の記憶」と題した「中日青年作家対話会」に参加した両国の作家たちは、大江先生の後にぴったり続き、
その言葉通りに足を踏み出して進み、 「歩く人が多くなれば、それが道になる」ための後継者となったといえるだろう。中国社会科学院外国文学研究所主催、日本国際交流基金の後援で開催された会議の起こりは、2000年9月まで遡る。
中国社会科学院を学術訪問されていた大江先生は、当時の李鉄映院長(のちにはさらに外国文学研究所の黄宝生所長)に提起した。日本の若い作家たちは欧米の文学により多くの関心を寄せているのに、同じアジアである中国文学をあまり振り返って見ることがなく、莫言ら中国の優秀な作家の文学作品をもあまり理解しておらず、中国の若い作家の創作活動に関してはそれ以上に知らない、と。だからこそ、先生は社会科学院と共同で中日両国の若手作家の交流を進めることを望んでいたのである。こうして、2001年9月には「中日女性作家シンポジウム」(中国社会科学院外国文学研究所主催、日本国際交流基金後援)が開催され、やがてまた今回の「中日青年作家対話会」が開催されるに至ったのである。今後もさらに、東京と北京で同様の学術会議が開かれるであろう。
今回の対話会に参加した日本の若手作家代表団のほとんどは、これまで中国に来たことがなく、いわば中国及び中国の若手作家に対して必ずしも理解しているわけではないという状況であった。ためらいなくこの会議に参加することは、日本の若い作家たちにとって、あるいは勇気がいることだったに違いない。とりわけ2006年という特別なこの年、あるべきでない障碍を絶えず受け続けてきた特殊な状況のもとでは、この勇気はいっそう貴重なものに思われる。
|
北京大学付属中学の構内で、校長や学生たちに囲まれて |
細かいことを述べれば、中日両国の一世代上の作家間の交流は決して少なくなく、国交回復前の1950、60年代には途絶えたことがなかった。例えば、野間宏を団長、大江健三郎、開高健ら若手作家を団員として、1960年6月から7月にかけて中国を訪問した日本の第3回文学家訪中代表団は、郭沫若、茅盾、巴金、趙樹理ら中国の多くの作家と厚い友情を結んだ。その後、少し後の世代では、莫言、鉄凝、余華、残雪ら、壮年作家と大江健三郎をはじめとする日本の作家の交流の機会もあった。中国社会科学院外国文学研究所内だけでも、莫言は、津島佑子、中沢けい、小川洋子、リービ英雄、多和田葉子ら壮年作家及び、川村湊、藤井省三、富岡幸一郎、桑島道夫ら文芸評論家や研究者たちと直接のさまざまな交流を重ねている。しかしながら、中日両国の若手作家の間の直接交流は非常に少なく、互いの国に翻訳・紹介される若手作家の文学作品も、多くはない。このような局面は両国の作家の相互理解の障碍となっていると同時に、両国の読者が若手作家たちの文学世界を楽しむための深刻な障碍となっている。少なくともこの意味では、中日両国の間で初めてこのような対話会が開かれたことは、歴史的な「明日の記憶」となる運命なのだろう。
|
昨年十二月に行われた中日青年作家会議に参加した作家たち |
また、二つほど面白いことがあった。一つはこの日本の若手作家たちは北京にやってくる前、ほとんどが互いに初対面であり、中国の代表団のほとんどの作家たちも開幕式のときにようやく名前と人物が一致したということである。もう一つは、先ほど触れた日本のほとんどの作家は同じアジアの中国に来るのは初めてであり、中でも芥川賞作家の中村文則は海外旅行自体が初めてということだった。一方、中国の代表団のほとんどの作家も、旅行や留学で欧米や、他のアジア諸国には行ったことがあっても、隣国である日本には行ったことがなかった。日本の代表団の作家たちが欧米やアジア、アフリカなど他の国に居住したり留学したりしたことがあるのと同様である。仮に、かくも互いに疎遠な隔たりある状態が長く続いてゆけば、未来を背負う若手作家たちが互いの理解を前提とする和解と効果的な協力を進めることは、非常に難しくなる。幸いなことに、こうして一つの会議室の中で座って顔をあわせて交流することが叶い、この交流が現実と歴史的意義を生みだすことになった。
前の世代の作家たちと比べてみると、両国の若手作家の間にはより多くの共通性が存在しているように思われる。それは先輩作家たちと同様、心の中できわめて細やかな感覚を意識すると同時に、彼らがより大きな叙事に関心を寄せているということだ。たとえば、小林エリカの心の中にある作家の責任。たとえば中村文則が創作において見つめる社会学的意義の上での「世界」と「社会」。たとえば、黒田晶が意識した異なる文化と言語の間のさまざまな差異。たとえば中上紀の辺鄙なところでのいわゆる現代文明に対する思索。たとえば安ニー宝貝のチベット考察のプロセスと、生と死という重い命題の思索。たとえば戴来の現代社会における特殊な弱者のコロニー―挫折した中年男性たちへの人類学的意義を含む関心。またたとえば盛可以が若者の同棲と結婚などを通して見た日常現象がとらえた人間の本質……。
|
会議終了後、北京郊外に出かけ、さらに交流を深めた |
両国の若手作家たちはお互いに顔をあわせたばかりのとき、いくらか不安を抱いていたかもしれない。しかし、3日間の会期が終わり、最後に名残を惜しみながら語らいあう頃には、不安はすべて離れがたい惜別の思いに変わっていた。一対一の熱い会話も、正式に発言するときのようなぎこちなさはなくなり、若者の率直さと活発さに変わった。中でも、李修文と黒田晶は心をオープンにした会話を通じ、率直な活発さが次第に親しみを増やしてゆくと、お互いを「中国の兄」「日本の妹」と呼び合うようになった。別れ際にはしっかりと抱き合い、なかなか離れようとしなかった。そんな情景を目にして、私とそこに座っていた若手作家たちの目も潤んだ。ぼんやりとした涙の向こうに、ひとりで荊棘の中を踏みしめているうちに、どんどん広くなってゆく道が見えてきた……。
メモ 「中日青年作家対話会」 昨年12月、中国社会科学院主催、日本国際交流基金後援で「明日の記憶――中日青年作家会議」が北京で開かれた。日本からは、芥川賞作家の中村文則、すばる文学賞作家の中上紀、文藝賞作家の山崎オナコーラら若手作家が北京を訪れ、馮唐、戴来、張悦然、盛可以ら中国の同世代の作家たちと、それぞれの創作への思い、中日の文学のなどをテーマに交流した。
|
|
|
|