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易武古鎮の民家 |
後漢の永平12年(69年)にその歴史が始まった易武古鎮は、シーサンパンナ・ダイ族自治州のモンラー県内にあり、中国とラオスの国境地帯の山間部に位置する。ダイ族、ヤオ族、イ族、漢民族などの村が、海抜730〜1433メートルの山あいに分布する。土地の高低差が激しいため、古鎮の周りには谷間が縦横に走り、雲や霧がたちこめる。たっぷりの雨量やしっとりした空気、十分な日差しに恵まれたここには、原生の植生や環境が失われないままに残る。一面に広がる茶畑、樹齢百年に及ぶ茶樹、伝統的な手作りの製茶法、茶と馬の通商で賑わった市のおかげで、この古鎮は広く知られるようになった。
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車順号茶荘の正門 |
『茶祖史話』の記載によると、易武茶の生産は225年に始まった。土地の原住民は野生の茶樹を人工栽培し、生産したお茶を、最初は薬用、やがてサンショウやショウガ、ニッケイと一緒に煮込んで飲用するまでに発展させた。今日に至るまでの歴史は、1700年にも及ぶ。
明の末期から清の初期まで、石屏など漢民族の居住地からの人々の移住と漢民族文化の影響が、易武茶の栽培や製茶の発展を促進した。手作りの七子餅茶(7枚セットで筒に入った円形に圧縮された緊圧茶)、磚茶(煉瓦状に固められた緊圧茶)、沱茶(お碗の形をした緊圧茶)など一連の伝統的なプーアル茶が、東西南北に知られるようになった。
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車順号が生産した茶の包装には「瑞貢天朝」という四つの字がある。これは清の道光帝が題した扁額からとった文字である |
雍正7年(1729年)清政府は、茶と食糧の売買を管理する機構を易武に設けた。品質の高いお茶を生産する易武は、「貢茶」(朝廷に献納する高級茶)の産地と欽定された。その後、毎年朝廷に献納されたプーアル貢茶の多くが、易武産のものであった。
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お茶を飲みながらおしゃべりする易武古鎮のお年寄りたち |
清の嘉慶(1796〜1820年)及び道光(1821〜1850年)年間、易武茶の生産は最盛期を迎えた。当時の易武は、山々に茶畑があり、いたるところに民家があった。茶の年産量は7、8万担(1担は50キロ)、茶農は6万人に達した。古鎮のいたるところに、茶問屋や店が開かれ、塾や寺が建てられ、道や橋が建設されるという繁栄ぶりが見られた。易武街だけで、同慶号、同興号、車順号、乾利真、安楽号、同昌号、福元昌など、20軒あまりの茶問屋が存在していた。
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新製品を評議する同慶号のベテラン職人たち |
茶の輸送の必要から、易武古鎮は早くから四方八方に通じる道路網を作り上げた。
『県志』には、易武の茶馬古道の各地へと張り巡らされた道路網に関する記述が残っている。「易武から東北の江城まで7駅、西北の思茅まで8駅、西の車里(現在の景洪)まで6駅、西南の猛棒まで6駅、慕磨丁まで8駅……」
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クマザサで包装された同慶号のプーアル円茶 |
茶馬古道研究の専門家である雲南大学の木霽弘教授の考証によると、易武が幅1メートル足らずの道に石畳を敷き始めたのは、清の道光14年(1834年)のこと。当時の長さは2、3キロしかなかったが、道光25年(1845年)になると、240キロに及ぶキャラバンのための石畳の道が完成した。この道は、曼撒、蛮謙、倚邦、補遠、モン加王、黄草ハなどへ通じるものであった。
茶の生産の最盛期になると、多くの人が買い付けや発送のために集まり、壮観な光景が見られる。現在では、古道の一部分のみ保存されている。「ここは、これまでシーサンパンナの茶山で発見された、唯一の石畳の茶馬古道です」と木教授。また彼は、易武こそ雲南・チベットルートの茶馬古道の最南端に違いないと考えている。
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同慶号竜馬茶の「内票」の商標 |
「瑞貢天朝」の由来について、雲南省の広大な茶の生産地では誰もがよく知っている。易武古鎮の茶問屋、車順号茶荘は、この立派な肩書きの看板のおかげで、ますます商売繁盛となった。
車順号茶荘は、車家の祖先車順来が、清の道光年間に創業した200年の歴史を誇る「貢茶」の老舗である。同店では、古くから受け継がれてきた手作りの製茶法を採用している。中には、自分の茶畑の茶樹から摘んだ良種の大きな茶葉を揉んで作った「女児茶」や「人頭金瓜茶」「沱茶」「七子餅茶」などは、いずれも名だたるブランドとなっている。
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易武七子餅茶 |
道光17年(1837年)、車順来は科挙の試験を受け、貢生に合格した。朝廷の知遇を得た恩に報いようと、自家製の高級プーアル茶を献納した。それを飲んだ皇帝は、「芳醇な香り、濃厚な味、後味を引く甘さ、すっきり爽快な飲み心地。これぞ茶の中の『瑞品(逸品)』である」と繰り返し賞賛した。そしてその場で「瑞貢天朝」という4つの字を記し、車順号に下賜した。さらに車順来を「例貢進士」に封じ、勅命を受けた一品大臣が雲南に赴き、これを宣布した。また雲南省布政使の捷勇巴図魯に監督して作らせた長さ7尺3寸2分(約2.4メートル)、幅1尺8寸(約0.6メートル)、厚さ1寸5分(約5センチ)、重さ50キロの「瑞貢天朝」と題した金文字の扁額を、車順号に届けさせた。受け取った車家では一族を挙げて、至宝を手に入れたかのごとく、扁額を迎え掛けるための厳粛な儀式を易武鎮で行った。この扁額は屋敷の正門の上の横木に、うやうやしく掲げられた。ちょうちんを吊るし、色絹を飾りつけ、何日もかけて賑やかに祝った。その後数十年にわたって、車順来は勅命を謹んで守り、毎年決まって特製の茶を朝廷に献納した。こうして車順号のプーアル茶も、広く知られるようになった。
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古鎮の手作り製茶工場 |
易武の同慶号茶荘によって作られた「竜馬」という商標のプーアル円茶は、「プーアル皇后」と称えられ、その美称は古くから世間に広く伝わっている。
同慶号茶荘は、乾隆元年(1736年)に創業された。のちに子孫である劉葵光、劉芸光という兄弟が経営権を引き継いでから、商売はますます拡大、発展していった。劉葵光は、かつて朝廷により奉直大夫と知州(従五品)に封じられたこともあり、土地の人たちは彼を尊敬し、「劉大老爺(劉の旦那)」と呼ぶのを好んだ。
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易武古鎮の茶の古樹 |
劉葵光の苦心の経営の下、同慶号茶荘は、「竜馬」商標の家伝プーアル円茶を継承し続けた。この円茶は、クマザサで包装され、上には朱色の辰砂で「陽春」の二文字が記され、その下の両側に「陽春嫩尖」「易武正山」という文字が縦書きで記されている。真ん中は墨で書かれた「同慶字号」の一行である。また、7枚一セットの一番外側の包装には、木版で捺した朱色の「雲南同慶号」の文字や白馬、雲、竜、宝塔をデザインした「竜馬」商標の「内票」(茶葉の外、包み紙の中についている紙)がついている。「清末の国宝級百年物のプーアル」と誉れ高い、世にも珍しい百年物のプーアル円茶は、現在ではどれほど高い価値があるかは想像することができるだろう。
光緒26年(1900年)以後、同慶号茶荘は、後代の人々のたゆまぬ努力によって、ますます繁盛していった。民国初期、30頭余りの馬や騾馬を所有していた同慶号の商売は、さらに拡大し、最盛期を迎えた。買い付け、加工、販売で取り扱う茶葉は、年間5、600担(2500〜3000キロ)に達した。他の茶問屋を超える規模の取り扱い量で、当時雲南省最大の茶号の一つとなった。その製品は日本および当時の香港、台湾、朝鮮半島、東南アジア一帯に販売され、人気を博した。
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古鎮の子供たち |
1940年代初期、劉葵光、劉芸光兄弟が逝去すると、同慶号はかつてのような勢いを失ってしまった。近年になって、プーアル茶の復興に伴い、同慶号を引き継いだ劉作頂、趙保平が、新たに態勢を立て直し、昔の製茶法を復活させた。そして「易武同慶号」および「劉大老爺茶荘」ブランドを掲げ、再び良質のプーアル茶を生産している。現在、同店は先祖代々の輝かしい事業や伝統的な老舗ならではの茶製品を、インターネットを通じて、世界各地に向けて紹介している。
「易武のプーアル茶は皇室の人々の好物であり、プーアル茶を所有することが身分の高さのシンボルであった」と、ラストエンペラー・溥儀も易武アープル茶を高く評価した。