中越国境貿易の街 河口を見る
楊振生=文・写真

毎日の8時ごろ、河口へ来て国境貿易をするベトナム人たちが国境で検査を受ける
 中国の南西部の辺境に位置する雲南省河口ヤオ族自治県。ここは、ベトナムのラオカイと川を隔てて向かい合っている。青く澄みきった南渓河と、水が赤みがかった紅河がここで合流し、川の水は二色になって流れている。

 1910年に建設された中国・ベトナム国境の鉄道大橋は、河口とラオカイを結んでいる。そして雲南省昆明とベトナムのハノイを結ぶテン越鉄道が走り、中国・ベトナムの国際交通と貿易の重要なルートになっている。

国境貿易に従事しているのは大部分が女性である。「国境居民通行証」は、彼女たちが商売するうえでの大切な証明書だ

 新たに建てられた中国・ベトナムの道路大橋は、鉄道大橋と並行して走り、雄大な景観をつくっている。

 河口は、国家クラスの貿易港で、河口ヤオ族自治県は1992年に対外開放された。その後、国境貿易の発展にともない、河口県城には店が立ち並び、多くの商人が集まってきた。昔は静かだった国境の小さな鎮は、いまやにぎやかな繁華な街になった。

 早朝、河口の税関の向こうに、竹の編み笠をかぶったベトナム女性の商人たちが、荷物を天秤棒で担いだり、貨物を満載した自転車やリヤカーを押したりして、中国・ベトナムの道路大橋の上に長い列を作って、税関が開くのを待っている。

河口で、新鮮なライチーを売るベトナム人。彼らが三々五々集まり、当地の住民と交易している

 ベトナム側の規定によると、自転車とリヤカーで貨物を運び、税関を通過する国境住民の貿易は、関税が安い。しかし車で貨物を輸送するのは国際貿易に属し、関税はずっと高い。だから大多数のベトナムの商人は、リヤカーで貨物を運び、1回で3トン以上を運ぶことができる。彼らは主に中国の河口に行き、食糧、食用油、果物、野菜、工芸品、日用品、ゴムなどの商品を売買する。

 朝8時、河口の貿易港では、国旗掲揚式が行われ、同時に税関が開く。するとベトナムの商人たちが、潮のように押し寄せてくる。その数は毎日、1万人近くに達する。通関するトラックも川の流れのように絶え間なく続き、国境の小さな鎮はたちまち沸き立つように賑わう。

河口の集荷場では、ベトナムの女性たちが車で運ばれてきた野菜を小分けにし、商売の準備している。一つの篭には約400キロの荷物を入れることができる

 昼ごろまでにベトナムの商人たちは、さまざまな品物を次々に売り尽くして、三々五々、街角の木陰の下の小さな飯屋にすわり、食事を取ったり、休んだりする。

 河口の気候は熱帯雨林気候なので、昼の最高気温は40.9度に達する。ここで河口特産の「巻粉」(コメの粉を蒸して肉などを巻いたもの)やビーフンなどの軽い食事をした後、河口で買い入れた中国の家電、日用雑貨、自転車、モーターバイクを持って、ベトナムのラオカイへその日のうちに帰ってゆく。

 河口の街では、多くのモーターバイクが飛ぶように走っているが、その中の多くは、ベトナム特有の白い帽子をかぶっているベトナム人が運転している。ベトナムの商人のグエン・ハムさんによると、ベトナム人はバイクが好きで、初めのうちは、日本や欧米製のバイクに乗っていた。値段は高かったが、品質は保障されると彼らは思っていたからだ。

ベトナムの女性は河口で副食品を卸しで買って、ベトナムへ持って帰り、それをさばく

 そのころ中国製のバイクは信頼されていなかった。かつて、中国のメーカーがベトナムへバイクを売ろうとしたが、買いたいと思う人はいなかった。

 後に、河口で商売をしているあるベトナム人が、急いで河口の近くの南渓鎮へ行かなければならなくなり、中国人の友達のバイクを借りて乗ったところ、なかなかよかった。その後彼は、中国製のバイクを一台買った。値段は日本製や欧米製のものよりずっと安かったが、品質も良かった。

 この話が広まると、河口で商売をする多くのベトナム人が、中国製のバイクを買い始めた。それから、中国製のバイクはしだいに、ベトナム各地で、品質が良く値段が安いという名声を得るようになった。

 いま、中国のメーカーは、ベトナムへ行って売りさばかなくても、ベトナム人が河口へバイクを買いに来ることができる。彼らはバイクを仕入れた後、一部分をラオカイで売り、大部分はハノイ、ハイフォンなどで売る。

河口のベトナム街では、さまざまなベトナムの果物が売られている

  河口県城の南にあるベトナム街には、数百軒の店が集まっているが、すべてがベトナム人の経営である。売られている商品もまたベトナムの果物、特産品、手工芸品などだ。街路には、また多くのベトナムの行商人がいる。男は軍用ハンモックを、女はブレスレットなどのアクセサリーを売っている。

 ある小さな雑貨店では、一人のきれいな若い女性が、中国語で呼び込みをしていた。「お客さん、香水をいかがですか。フランスのブランド品ですよ。ベトナムのサンダルはいかが、品質が非常にいいものです。ガールフレンドに一足を買ってあげてよ」

 約6、7平方メートルしかない小さな店には、サンダル、香水、化粧品、ライターなどが並べられている。若い女性はハノイの出身、夫は27歳で、店の中の腰掛に座っていた。

 若い女性は、2人が河口で商売を始めた経緯を語り始めた。

河口のベトナム街では、ベトナムの行商人が観光客に、軍用ハンモックや望遠鏡、ブレスレットなどの装飾品を売っている

 「同郷の人から、河口の商売はうまく行くし、中国の政策がとてもよいと教えられたので、私たちは国境の『居民通行証』をとって、河口へ来て商売を始めました。私たちが借りているこの小さな店は、毎月の家賃が500元、税金が100元で、合わせて600元がかかります。商売が順調なとき、毎月2000元から3000元稼ぎ、うまくいかないときでも1000元以上を稼ぐことができます」

 「毎朝6時半に店を開け、夜11時半に店を閉めます。家賃を節約するため、店の屋上に、小さな屋根裏部屋を建てました。中にはベッド一つしか置けません。ここへ来てすでに5年間商売をしています。苦労はしましたが、毎月、金を蓄えることができ、また家へ金を送ることができるので、大変うれしいです」

 彼女の実家には現在、両親、兄、姉がいて、みな河口で商売をしている。妹はハノイで学校に通っている。

若い女性と彼女の小さな店

 河口の商人たちはベトナムとの国境貿易でも活躍している。

 譚善祥さんは今年、48歳。かつては河口のゴム農園で働いたり、大工仕事をしたりしていたが、改革・開放後、商売を始めた。中国・ベトナムの貿易港が開かれた後、彼は自分の小型トラクターでベトナム人の荷物を運んだ。3年後、彼が金を儲け、トラックを買って輸送業を始めた。今、彼は貿易会社を創設し、7人の職員を雇い、3台のトラックを持っている。主に輸出入貿易、貨物の代行輸送などを営んでいる。商売はますます大きくなった。

 譚さんの家族には、妻、娘、女婿と孫がいる。娘と女婿がもともと当地の工商銀行で働いていたが、人手が足らないので、彼らがともに辞職して国境貿易に従事している。

 河口県の党委員会書記の趙向前さんは、中国とベトナムの国境の経済発展について、こう語っている。

譚善祥さん(右から二人目)は、ベトナムの自由市場で、ベトナム語で露天商と話している

  「中国は、『睦隣、安隣、富隣』(隣国と仲良くし、隣国と安定した関係を結び、隣国を豊かにする)の平和と発展を目指す外交方針を堅持している。それが主に、国境の経済発展に役立っている。とくに、1996年2月14日に再び開通した国際鉄道の貨物輸送が役立っている。中国と東南アジア諸国連合(ASEAN)の間に自由貿易区が建設され、東南アジアに向かう新たなルートであるパン・アジア鉄道が建設されれば、河口の重要な地位はいっそう明確になる。河口は、以前の辺境地帯から、現在、貿易の最前線に変貌を遂げた。河口は、昆明からハノイ、ハイフォン地区へいたる経済回廊上の重要な貿易港であるばかりでなく、中国の南西地区の対ベトナム貿易の重要な通商港にもなっている。

 当然、国内外の市場がいつも変動しているので、対外貿易企業はある程度の影響を受けているが、河口の国境貿易が依然として穏やかな発展を維持している。データは少し古いが、2005年の税関統計によると、河口の貿易港は、輸出入総額が35億7091万7000元に達し、前年に比べ11.3%増加した。同時に、経済の発展と科学技術の進歩にともない、輸出入のうち、機械・設備など価値が高い商品の比重が上がり、その貿易額もさらに高くなった。


 
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