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空から撮影した大渡崗の広大な茶畑 |
最初に空撮を行ったのは、雲南省・思茅地区の大渡崗であった。ここには中国では最大級の1万ムー(1ムーは6.667アール)を超す茶畑がある。大渡崗に着いたときにはすでに昼を回っていた。
大渡崗製茶工場は、1万5200ムーの茶畑を有する国有企業である。主に大葉茶を原料として、プーアル茶や緑茶、紅茶などを生産している。茶畑の茶の木は、腰の高さにきちんと刈りそろえられ、幾重にも重なって、山並みの起伏に沿って遠くへ伸びていた。茶畑の小道には、淡い茶の香りが漂い、うっとりとする。
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大渡崗ではいたるところにプーアル茶の商店がある |
すると突然、前方から澄んだ歌声が響いてきた。山村で労働しながら歌われる山歌である。声のする方を望むと、茶摘みの女工さんたちが歌を歌いながら茶畑で茶を摘んでいるのが見えた。
「大渡崗製茶工場のみなさんですか」と歌声のする方に歩きながら尋ねると、女工さんたちは頭をあげて、「そうですよ。あんたはどこから来たの。茶葉を買いに来たのかえ」と、手を休ませずに答えるのだった。
女工さんの一人、婿正秀さんは2004年からこの製茶工場で働いている。夫は茶畑で茶を摘んでいる。この日は日曜だったので、工場は休み。そこで婿さんは、隣近所の人たちの手助けをしに茶畑に来て、茶を摘んでいたのだった。
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婿正秀さん(左)と仲間たちが茶畑で茶の葉を摘んでいる |
このあたりの村々は、ほとんどの家で、茶に関わる仕事をしている人がいるという。どの家でも、労働力の多少に応じて、自分の家が請け負った茶畑を管理している。婿さん夫婦も2人で、7ムーの茶畑を管理している。
年末になると、各戸は上納した茶葉の量に比例して、一定の歩合をもらう。たくさん上納すれば、歩合も多くなるのだ。婿さんの場合は年に1万元ほどになるという。
大渡崗製茶工場では現在、4000人以上の労働者が働いている。生産している茶の品種は75種類。茶葉の年間生産量は2500トン。プーアル茶はそのうちの5分の1を占める。製品の輸出先は米国、ロシアなど欧米各国と東南アジア諸国。2006年9月、雲南・昆明で挙行された第1回プーアル茶博覧会では、「佛瑞」印の「朝聖茶」と「女子馬幇茶」の二つのブランドが金賞を獲得した。また2006年に初めて開催された「中国・アセアン茶文化博覧会」では、「佛瑞」印の「王中王茶」が「茶王賞」を取った。
怖さ忘れてシャッターを切る
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大空に飛び出したモーターグライダー |
あらかじめ計画していた通り、この地で広大な茶畑の壮観さを空撮しなければならない。地上の茶畑の取材を終え、一刻の休みもなくモーターグライダーの離陸地点に駆けつけた。
モーターグライダーを載せてきたトラックとその要員は、すでに現場に到着していた。製茶工場の人たちの助けを借りて、工場内の道路の一部を閉鎖し、ここを臨時の滑走路とした。準備万端整って、パイロットの指令を待つばかりとなった。
パイロットは、全国グライダー選手権のチャンピオン、張虎さんである。背は高い方ではないが、有能で精力的な四川っ子の張さんは、飛行の経験が非常に豊富だ。現場に着くとすぐ、離陸と着陸の地点の安全状況をチェックした。
この日、午後は視界が悪く、雲も絶えず増え続けていたので、張さんはずっと、飛ぼうか飛ぶまいか、ためらっていた。私は二台のカメラを背負って、空撮の準備を整え、搭乗の指令が下るのを待っていた。
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離陸準備完了 |
太陽が西の山に落ちようとするとき、突然、誰かが叫んだ。「モーターグライダーを降ろす準備をせよ。みんな、脇へ寄ってくれ」。ついに離陸の指令が伝えられたのだ。総がかりで細心の注意を払いながら、モーターグライダーをトラックから降ろし、路上でそれを組み立てた。
たちまち、翼を広げて空を飛ぼうとする一羽の「鉄鳥」が、人々の眼前に現れた。村人たちは、この珍しいシロモノを一目見ようと、駆け寄ってきた。パイロットの張さんは、飛行前に行われる通常の点検を終えて、モーターグライダーに乗り込んだ。そしてトランシーバーを使ってこう叫んだ。「気をつけて! まもなく離陸します。皆さん、速やかに道路から離れてください」
私も緊張でコチコチになり、おっかなびっくり、モーターグライダーに乗り込んで、「キャビン」の中に座った。緊張のせいで、どこを手でつかんだらいいのか分からない。「こいつはあまりに貧弱だし、小さすぎるよ」と思わずに小声でブツブツ言った。両手は無意識に、すでにしっかり締めた安全ベルトをまさぐっていた。
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道路の上でモーターグライダーを組み立てる |
周囲を見回すと、尻が手のひら大の椅子に乗っているほかは、全身がすべて機外にさらされている。「空を飛んだら、凍えてしまわないかな」と心の中でつぶやいた。
身体の後ろにある、むき出しのエンジンが、突然、狂ったように猛烈なうなり声をあげはじめた。その強大な推進力によって「鉄鳥」は、道路の上を突き進んだ。見物の人たちは散りぢりになり、いっせいに現場から離れ、驚異のまなざしでこの「鉄鳥」を見つめていた。この時、どこから来たのか、一匹の犬が、狂ったように鳴きながら「鉄鳥」の後を追いかけてきた。
パイロットの張さんは大声で「しっかりつかまって。飛ぶぞ」と叫んだ。彼は操縦桿をゆっくり前に倒した。するとモーターグライダーは、ぱっと跳び上がり、地面を離れた。そしてしばらく、上下に数回揺れ動いた後、青空に向け飛んだ。
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みんな、気をつけながら三角翼モーターグライダーをトラックから降ろした |
私は緊張で、心臓が喉から飛び出しそうになり、しっかりと両眼を閉じていた。しかし再び目を開けたときには、自分はすでに大空を飛んでいた。脚の下の大地はぐるぐる回り、ひっくり返っていた。強烈な気流が直接、顔や体に吹きつけ、身体全体が変形してしまったように感じた。
しばらくしてモーターグライダーは、一定の高度に達し、だんだんと安定してきた。私はやっと一息つき、リラックスしてきた。
「今の高度はどれぐらい?」と尋ねると、張さんは高度計を見ながら「500メートル以上」と答えた。私は「すごく刺激的だ。まるで鳥になったみたいだよ」と大声で言った。
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視察団を迎え、自分の栄珍製茶工場を案内する彭学珍さん(左) |
そして下を見ると、空の果てには淡く薄い霧が漂い、幾重にも重なる緑の茶の木と川の流れが交わり合って、見渡す限りの緑の海を造りだしていた。その茫々たる緑の海の中を、我々の自動車キャラバンが、まるでくねくねと這う蛇のように進んでいた。私はカシャッ、カシャッとカメラのシャッターを押しながら、先ほどまでの恐怖心をどこかに捨ててしまっていた。
空撮は約30分ぐらい続いた。モーターグライダーは旋回したり、急降下したり、気流に乗って上昇したかと思うと逆風に会って降下したり、まるで鳥のように青空を飛翔した。その自由自在な感覚は、なんとすばらしかったことか……。
有機農法の茶園を見る
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彭学珍さん(右)と夫の段家栄さん |
空の取材を終え、地上に降り立ったとき、空はすでに暗くなっていた。寒さでしびれてしまった顔がまだ元に戻らないうちに、今度は車で茶畑の山に向かった。泥濘の中を車は、大きなエンジン音をたてながら、くねくねとした山道を喘ぎ喘ぎ登り、そして栄珍製茶工場の茶畑に着いた。
茶園の主は、女性の彭学珍さんである。記者が自分の家に取材に来ると聞いて、早々と家に帰って待っていてくれた。彼女と会って一言、二言交わすうちに、この人は雲南省の人ではないと感じた。
「貴女は地元の人ではないのでしょう」と言うと、彭さんは笑いながら「どうして分かったの。私は生粋の重慶人よ」と言った。そして四川省の方言で自分の歩んできた道を語り始めた。
「文化大革命」時代の1971年3月、呼びかけにこたえて彭さんは、重慶から雲南省シーサンパンナの景洪農場に来て、ゴム園の労働者となった。そしてたちまち10年が経った。
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栄珍製茶工場で生産されたプーアル貢茶 |
1982年、国営の大渡崗製茶工場が設立されたとき、今度はその工場の労働者となった。その後、今の夫の段家栄さんと知り合った。段さんは雲南省玉渓の出身で、二人は結婚後、一男一女をもうけた。1998年、主人の段さんが定年退職した後、二人は自分たちの製茶工場を興した。工場の名前は、二人の名前から一字ずつ取って「栄珍製茶工場」と名付けた。
20年以上、製茶工場で働いていたので、彭さんはお茶の栽培から茶葉の加工までの全工程の技術を身につけていた。そこで、段さんも賛成して大渡崗寨村の村民の土地150ムーを請け負い、ここに茶の木を植えた。請負期間は30年である。
2人は経営に苦心した結果、生産販売規模は逐年、拡大した。自ら植えた茶葉のほかに、モウ海県の布朗山、南糯山、攸楽山などの優良な茶葉の産地から茶葉を購入して、品質の良いお茶を加工生産した。息子は北京の政法大学で学んだが、卒業後、ためらうことなく故郷に帰ってきて、親を助けて製茶工場の商売を切り盛りしている。
現在、栄珍製茶工場は、雲南省あげて推進されている無性生殖技術を採用して茶葉を栽培し、伝統的な製茶法に則ってプーアル茶を生産している。商売は大変繁盛している。
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150ムーもある彭さんの茶畑 |
彭さんが言うには、この茶畑では農薬を使わない。この地にすむゾウの糞便とヤギやブタの糞便を混ぜてつくった有機肥料に緑肥を加えて発酵させ、茶畑に施肥している。
このため、栄珍の茶畑は、エコロジーの茶畑として有名になっている。生産されたお茶の製品は遠く各地で販売され、人気の商品になっており、茶葉の年間販売量は300トン、収入は80余万元に達する。家族は5人で、1200平米以上ある3階建ての住宅と3600余平米の工場を建て、村民たちの羨望の的となっている。
見渡す限り青々と広がる窓の外の茶畑を見ながら彭さんはこう言った。「去年、私たちは日本の東京と静岡などへ視察に行き、お茶どころを見学しましたが、私たちの茶畑の生態環境は、日本より良いと思いました。将来、私の茶葉が日本の皆様に喜んでいただけたら、と思っています」