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内蒙古フフホト市ホリンゲル県の「蒙牛」澳亜モデル牧場は、敷地8848ムー。オース トラリアから導入した1万頭の乳牛を飼育している。世界の先進レベルの近代的な設備を導入した「回転盤式」の搾乳装置は、一回で60頭の乳牛を同時に搾乳できる |
内蒙古自治区は、88万平方キロの草原を有している。それを資源として、牛乳、カシミヤ、駱駝の毛、羊肉などの草原畜産業が急速に発展している。そして現在、茫漠とした荒地が次第に、新たな経済成長のポイントとなってきた。この結果、経済力は2000年の全国24位から、2006年の17位に躍進した。
牛乳の香り漂うフホホト市
自治区の区都のフホホトは、内蒙古の中央部にある。「フホホト」はモンゴル語で「青城」(緑の都市)を意味する。ここには、蒙古族、漢族、回族など多くの民族が暮らしている。街を歩くと、パオをまねた建物が多く見られる。道端の広告や店の看板はすべて、漢字とモンゴル文字の両方で書かれている。
フホホトの街を出ると、村落が次第に多くなり、あちこちでのんびりと草を食んでいる乳牛をよく見かける。ある農家に入ると、主人の崔志剛さんは不在だったが、牧場の管理を担当している武継文さんが私たちを白衣に着替えさせ、紫外線で消毒した後、牧場へ案内してくれた。
武さんの話によると、牧場所有者の崔さんはすでに18年間、乳牛を飼育してきた。乳牛の頭数は最初、7頭しかいなかったが、いまは300頭以上になっているという。
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「伊利」集団の思遠牧場園区が子牛のために建てた「子牛島」(写真提供=「伊利」集団) |
フホホト市は、北緯39度58分から41度36分にあり、乳牛の養殖にもっとも適している地帯として世界的に公認されている。千年以上前から、ここは重要な乳製品の生産地であり、集散地でもあった。牛乳やバター、チーズ、ナイ茶(ミルクを入れた茶)、馬乳酒など、いずれも人々にとって欠かせない日常食品だ。しかし、乳業が急速に発展してきたのは、ここ十数年のことだ。
1993年、伊利集団(以下は「伊利」と略す)の前身である「フホホト市回民ナイ食品総廠」は株式制に改革され、「内蒙古伊利実業株式有限会社」になった。この地の乳牛は一般に、牛乳生産期が短く、量も少ない。そこで「伊利」は、乳牛の品種改良に着手した。はじめは、農民たちは疑心暗鬼だったが、「伊利」は農家に品種改良の費用を立て替えた。また、飼育の科学的な知識を普及した。こうして、乳牛一頭あたりの年間牛乳生産量は500キロのびた。
それまで農家は、自分の桶で牛乳を収集ステーションへ運んだが、衛生状態が保障できなかった。1998年、「伊利」は、乳牛を専門に飼育している村や乳牛が集中している地区に、一億元以上投資し、近代的な搾乳ホールと牛乳収集ステーションを建てた。
牧場には搾乳ホールがある。牛を消毒したあと、搾乳機をつけると、牛乳は自然に密封した桶の中に流れ込むという。乳牛の頭数が少ないところでは、牛乳収集ステーションまで乳牛を引いていけばよくなった。
「伊利」の本社は、フホホト市の郊外にある。そこの展示ホールには、牛乳、ヨーグルト、アイスクリーム、粉ミルクなどさまざまな製品のサンプルが展示されている。我々を迎えた王宝全さんは「現在、『伊利』の製品は千種以上あり、新製品が絶えず市場に登場しています。ヨーグルトなどの冷たいものだけでも、毎年50〜60種類の新製品が売り出されているのです」と言った。
ガラス越しに見ると、生産工場にはほとんど人がいない。高温殺菌から封入、積み上げ、貯蔵まで、すべて自動化されている。
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2005年11月16日、「伊利」集団の潘剛さん(右から4人目)は、北京オリンピック組織委員会の代表と取り決めをし、正式に2008北京オリンピックのスポンサーとなった(写真 提供=「伊利」グループ) |
「以前は賞味期間が2、3日しかない低温殺菌の新鮮牛乳が市場の90%以上を占めていたが、2000年に、『伊利』が高温殺菌技術を真っ先に導入し、またスウェーデンのテトラパック社から導入した無菌封入技術を液体牛乳の生産に使い始めたことで、賞味期間は20倍以上延びた」と王さんは言った。
1996年、「伊利」の営業収入は3億6000万元しかなかった。今は、「伊利」は中国の乳業業界ナンバーワンのブランドとなった。2006年の第3・4半期までの主な営業収入は、すでに124億8100万元に達した。
「伊利」は、フホホト・包頭、北京・天津・唐山、東北の三大牛乳生産基地のほか、全国500以上の都市に販売ネットワークを設立し、さらに北京、天津、上海に支社を開設した。
2005年、「伊利」は2008年北京オリンピックの唯一の乳製品スポンサーに選ばれた。そして雑誌『フォーブス』が選んだ2006年の「世界で最も尊敬を得ている企業」リストのトップ 100 に入った。しかし「伊利」の目標は、2010年に世界の乳業のトップ20に入ることだ。
蒙牛乳業集団(以下は「蒙牛」と略す)の発展は、もっと奇跡的と言ってよいだろう。1999年に設立されて以来、8年間にその販売高は、3700万元から2006年には162億4600万元に増加した。乳業の業界での順位も1116位から、第2位に上昇した。現在、「蒙牛」は、全国15の省、直轄市、自治区に20以上の生産基地を設立し、その製品は全国的に販売されているうえ、米国やカナダ、東南アジア、香港、澳門などの国や地区でも販売されている。
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「砂漠貫通道路」に沿い、「億利」資源集団は1000ムーあまりの砂漠の表面に、厚さ30センチの泥炭を敷き、野菜を栽培するビニールハウスを作った |
同時に「蒙牛」は、1億元以上の科学研究資金を投入し、中国初の乳業のバイオテクノロジーのプラットホームを作り、特級純牛乳の「ナイ爵6特乳」と「トロス(特侖蘇、モンゴル語で『金メダル級ミルク』の意味)純牛乳」を世に出した。2006年10月に開催された第27回世界乳業大会で、「トロス純牛乳」が国際酪農連盟(IDF)の新製品開発大賞を受賞した。
「伊利」「蒙牛」の二大乳業の飛躍的な発展によって、フホホトは中国乳業の「中心地帯」になった。フホホトから毎週8回、草原牛乳の専用列車が全国各地へ向かう。2003年9月から現在までに、すでに華東、華南の市場に運ばれた草原牛乳は、百万トン以上になる。2005年8月、フホホト市は、中国乳製品協会から正式に「中国の乳都」と命名された。現在、フホホト市では、1万人近くの人が、飼料や動物用薬品の生産や畜産機械の生産・販売などの関連産業に従事している。
発展しつつある砂漠産業
車は砂漠貫通道路を疾走した。大風が砂を巻き上げ、車のガラス窓に当たってパチパチと音を立てた。「我々の車はおそらくこれ以上、奥地へ入れない。迎えに来させよう」。案内の韓玉光さんはそう言いながら、ウリゲンダライさんの携帯に電話を入れた。
ウリゲンダライさんの貨客両用車に乗り換え、さらに一つまた一つと、砂丘を越えて行った。すると遠くかすかに、樹木らしきものが現れた。「あれがウリゲンダライさんが植えた樹木だよ。夏になると鬱蒼とした緑になりますよ」と韓さんが紹介した。中国語が上手く話せないウリゲンダライさんは、にっこりと笑うだけだった。
やがて、きれいなレンガづくりの数棟の平屋の前に来た。家の後ろには、風力発電装置が高々とそびえ、風に吹かれて回転していた。「風のない時は、ソーラー・エネルギーで発電します」とウリゲンダライさんは言った。
ウリゲンダライさんの一家は4人家族。妻は用事で外出していた。2人の息子は、鎮の学校で勉強しているので、今は2人暮らしだ。部屋に入ると、ソファー、テレビなど家具はすべてそろっていた。炊事や風呂は、プロパンガスや給湯器を使えるようになったという。来るまでに想像していたのとまったく違う。
特にびっくりさせられたのは、数十キロ四方に人家のない場所で、ウリゲンダライさんはパラボラアンテナにより、16のテレビ局の番組を見ることができ、さらに、給水塔を建て、水道の水を使っていることだった。
ウリゲンダライさんの今の生活は、長い苦労の結果、ようやく手に入れたものである。彼と奥さんは、砂漠貫通道路の建設の際、2万ムーの砂地を請け負い、黙々と樹木を植えた。昼食は家に帰ってとることができず、干したナンをかじるだけだった。
砂漠の氷が解ける前に春季の植樹の準備を済ませておくために、ウリゲンダライさんは60キロ以上離れたところまで行って苗木を運んできたこともある。1997年の大晦日、彼はトラクターを運転して苗木を運びに行ったが、トラクターが砂漠の中で立ち往生し、正月の元旦になってやっと苗木を家まで運んだ。
1997年から今日までに、ウリゲンダライさんが砂を治めるために植林した面積は5万ムー以上に達する。彼は自分がつくりあげた「オアシス」に、牧場をつくり、羊400数頭、馬10頭、肉牛十数頭を飼っている。
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ウリゲンダライさん毎日、植樹や羊の放牧のため砂漠へ車で行く |
彼はまた「海子」と呼ばれる湖を整備し、葦を植え、十数万尾の稚魚を放流した。毎年、葦だけで3、4万キロ収穫できる。年収は「17、8万元ぐらいでしょう」とのことだった。
こうしたすべての成果は、砂漠貫通道路のおかげだ。最初の砂漠貫通道路が開通した後、北京「四通」公司、内蒙古「伊泰」集団、「億利」資源集団など一連の大企業が、前後としてクブチ砂漠に進出し、道路の両側に、甘草の栽培基地やエコ産業化基地、砂柳や檸条、羊柴(いずれもマメ科の植物)などの栽培基地を建てた。
これら会社の指導で、農牧民たちは砂漠の産業の発展に力を入れ始めた。2006年には、ハンギン旗は、砂柳58万ムー、甘草210万ムー、梭梭(砂漠に生える灌木の一種)2000ムーを有するまでになった。そして七星湖や響沙湾、草原旅行文化村の三つの旅行風景区を開設した。
大砂漠で20年以上暮らしてきた牧畜民のモングバヤルさんは「この数年、羊柴の種を売るだけで、毎年6万元以上を収入することができるようになった。これは以前では想像もできないことだ」としみじみ言うのだった。
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「長調」は蒙古族特有の歌唱様式で、中国の民間文化遺産である |
「長調」と呼ばれる民謡は、遊牧文化と地域文化の鮮明な特徴を有する独特な歌唱の様式である。その明らかな特徴の一つは、「歌詞は少なく、節回しが長い」ことである。曲調はゆるやかで悠然としており、婉曲で抒情的に歌い、音域は広く、変化に富む。
中国の史書によると、2000余年前の匈奴の時代に、はやくも「長調」あるいはその前身の歌が、すでに北方の草原で流行っていたという。「長調」の多くは、牧畜民や駿馬、草原の愛をテーマとし、祝祭日や婚礼、宴会、親戚友人の集い、ナーダム(競技会)に、なくてはならない演目だ。その内容や機能、歌う場所によって、「長調」は牧歌、故郷を想う歌、賛歌、婚礼歌、宴会歌(酒歌)などに分けられる。
2005年11月25日、中国政府とモンゴル国政府が共同で申請した蒙古族の「長調」民謡は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界無形文化遺産リストに登録された。
元の上都遺跡
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元の上都遺跡(写真・王大方) |
内蒙古自治区ドゥンドホト(敦達浩特)鎮の北東約10キロのところに、俗に「ナイマンスム(奈曼蘇黙)城」と呼ばれる場所がある。これはモンゴル語で「108の廟」という意味で、元の憲宗6年(1256年)から建て始められ、開平府と名付けられたが、後に上都と改められ、また上京、欒京とも言われた。
1260年、元の世祖フビライは、「汗」を称し、ここに都を定め、「大元帝国」を建てた。フビライは3年間かけて、巨費を投じて上都開平城を築いた。そして都を大都(北京)に移してから、ここを陪都(副都)とした。
元の上都遺跡は、一辺の長さが2200メートルの正方形をしており、内から外へ宮城、皇城、外城の三重の城からなっている。その中で宮城は、建築全体の中で一番大切なものであり、皇帝と皇后たちが避暑をする場所であった。
ナーダム
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大草原で開かれたナーダム大会。 |
ナーダムは、モンゴル語で娯楽またはゲームを意味する。ナーダム大会は、年に一度、草原で開かれる蒙古族の伝統的な祭りで、ふつうは7、8月に開催される。
蒙古族は、尚武の民族である。チンギスカンは、勇敢で機知に富み、頑強な人を養成することを重視し、騎馬、射箭、角力(モンゴル相撲)を「男子の三芸」と言い、兵士や大衆の素質を高めるための訓練の内容にした。今、「男子の三芸」はナーダム大会での主な競技種目となっている。
ナーダム大会は非常に盛んで、開会の時期になると、10キロから100キロ以上の範囲に住んでいる牧畜民がみな祝日の盛装をして、老いも若きも一斉に、パオや日常の生活用品を持って、車や馬で祭りに赴く。商売者たちは、遠近を問わずやってきて、店を開き、日常用品を売ったり、畜産物を買い付けたりする。そのため、日ごろ静かな草原は、喜びに溢れるのだ。 |
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