北京は胡同(横町)の街である。6000余の胡同が東西南北、街を縦横に走っている。
胡同のルーツは、元王朝のフビライが至元8年(1271年)、北京に都を置き大都と称したときにまで溯ることができる。
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什刹海付近の胡同を、観光客を乗せて走る三輪車 |
胡同は、フビライが蒙古の草原から持ってきた言葉、つまりモンゴル語の「フードン」(井戸)という音に「胡同」という漢字をあて、井戸のある横町を胡同と呼んだ。その後は井戸のある無しを問わず、横町を胡同と呼ぶようになり、今日に至っている。
北京の胡同は、元王朝のころは413、明王朝になると1170、清王朝では2017、そしていまは6000余といわれるが、昨今の都市建設による区画整理で、胡同はいくらか減っているのではないだろうか。
さて、本題の胡同のユーモアに移ろう。北京人は堅苦しく、ユーモアを解せず、冗談一つ言えないという人がいる。私も、そうかなと思っていた時期もあるが、数年前に北京の胡同名の一覧表を眺めていて大発見をした。ユーモアに溢れる胡同名がたくさんあるのだ。胡同名の名付けの親はもちろん北京人。北京人は素晴らしいユーモア感の持ち主であることを発見したのである。
私は、よく本や絵、文房四宝(筆、硯、墨、紙)の老舗が軒を連ねる琉璃廠に行く。そして、その足で胡同を縫って前門の商店街に足を伸ばす。かなり前の話だが、その途中の楊梅竹斜街の一角に「一尺大街」という胡同を見つけた。長さ10メートルほどの超ミニ胡同だが、「身の丈一尺、されど大街」と大きく見得を切ったこの命名に感じられる北京っ子の意地とユーモアに、わたしは心からの拍手を送った。
胡同の生みの親でもあるフビライの規定では、大街は幅36メートル以上となっているが、そんなことはどこ吹く風、「オラが胡同こそ大街」というわけだろう。
超ミニ胡同といえば、長安街の「耳の穴胡同」(耳朶眼胡同)も傑作だ。「オイラの胡同は耳の穴のように小さいが、塞いでしまったらなにも聞こえなくなっちゃうぜ」という自負が感じられる。
その形から命名された胡同名にもユーモアがある。真っ直ぐでなく、てんびん棒のようにちょっと反っている「てんびん棒胡同」(扁担胡同)、以前は11カ所あったというが、郵便配達の混乱を防ぐため、いまもその名が残っているのは東城区北新橋の「てんびん棒胡同」だけになっている。
「キセル胡同」(煙袋胡同)は入口と出口が広く、中間が狭くて長いキセルのような形の胡同。細長い胡同には「もやし胡同」(豆芽胡同)、「毛筆胡同」(筆干胡同)、「頭の毛胡同」(頭髪胡同)……。
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南官房胡同で、国旗を掲げて国慶節を祝う居民たち |
「ポケット胡同」(口袋胡同)、これは入口があるが出口のない行きづまり胡同。入口は狭いが出口は広い胡同としては天橋西永安路の「小さなラッパ胡同」(小喇叭胡同)、ここもミニ胡同で道幅のいちばん狭いところは58センチだそうだ。
ちょっとユーモアとは離れるが、六門胡同、八門胡同と呼ばれる胡同もある。読んで字のごとし、それぞれ門のある6軒の家、8軒の家が一つの胡同で仲良く暮らしているところだ。北京人はそれぞれの家のプライバシーを重んじ、普段はあまり他人の生活に深入りしないが、いったん事有るときは向う三軒両隣り、誰いうとなく空気のようにそっと寄り添って助けあう、こうした北京っ子の気性が胡同に静かなハーモニーをもたらしているのかもしれない。
胡同のユーモアというと頭に浮かぶのは、作家の老舎のことだ。生涯、北京を、北京の庶民を描いた中国の作家、老舎は、北京西城区の小羊圏胡同で生まれ、少年期をここで過ごしている。小羊圏胡同は小楊家胡同と名を変えて、いまも健在だ。老舎の代表作『四世同堂』は、この胡同を舞台としている。
老舎の処女作『張さんの哲学』も北京を舞台としたユーモア小説。彼はまた漫才も書き、みずから演じたこともあった。こうした老舎に「笑いの大王」という称号を贈ろうということになったが、老舎は「およそ王と名のつく者には妃あり、宮殿あり、駕籠ありですが、てまえども、この三種の神器、なに一つ持ちあわせておりません」といって断ったという。これも、胡同の一庶民として暮らした老舎ならではのユーモアだろう。
老舎は、まさにユーモアの泉である胡同が生み育てた文豪だ。胡同は、北京の庶民の生活の場であり、人生の舞台であり、文化の博物館だといえよう。