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田村=文・写真 |
中国では、ものの順番を数えるとき、よく、「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」を使う。この十の文字は、日本では「十干」と呼ばれるが、中国では「天干」と言われる。 羅振玉、呉其昌、郭沫若らの一世代前の大学者たちは、この十の文字が商(殷)代(紀元前1600〜同1046年)の甲骨に刻された文字の中に出現し、その形について詳しく検討を加えた。 その結果、「甲」という文字は兵甲(鎧)、「戊」は鉞、「己」はイグミル(矢に糸をつけたもの、いとゆみ)、「辛」は剣または匕首、「壬」は両刃の斧あるいは殳(矛)または双頭矛、「癸」は癸戈(ほこ)あるいは爪鈎と、それぞれ解釈された。またそれらの文字に相応する文物は、すべて出土している。(図1、2参照) しかし乙、丙、丁、庚の4つの文字は、まだ意味がわかっていない。匕首を意味しているといわれる「乙」を除いて、その形から見れば、「丙」は弓、「丁」は矢じり、「庚」は旄頭(旗の先につけたヤクの尾の飾り)あるいは兜かもしれない。(図1参照)
さらに「天干」に関係する文字は二つあり、それは「干」と「獣」である。(図3参照) 商の時代の「天」は、どんな形だったかは知るよしもない。当時、国家の祭祀に用いられた鼎の正面には、獣面が鋳造され、それは「天獣」を象徴していた。左右には、蒼竜(青色の竜)が祀られていることから、その地位の高さを知ることができる。後世の人が勝手に、この獣を「饕餮」と呼ぶようになったが、実は商代には「饕餮」という二文字はなかった。 甲骨文の中にある「干」の字は、天獣の二つの角の象形文字で、文字の中に縦長の「―」があるので兵器と解される。そこから分かることは、「天干」の意味は「天の兵」であることだ。当時の人々は兵器を畏敬し、それは天から賜ったものであり、天下を征伐するために用いると考えていたことも分かる。
「干」は「刺股」の象形であるが、出土した早期の兵器の中には発見されていない。また商代の人は剣を「辛」と呼び、それを形で表した。たぶん周代から「剣」と呼び始めたのだろう。「剣」は「辛」と発音が近く、古代は「干」の発音と合い通じていた。後世、闘争することを「大いに干戈を動かす」と形容するようになったのは、「干戈」すなわち兵器を互いに用いて殺しあうという意味である。 商代の青銅の鼎にも、「天干」が銘文に刻まれているものもある。例えば有名な「司母戊」「司母辛」の大鼎は、「天干」の銘文があるために、広く学界の注目を集めた。伝統的には鼎は王者だけが使えるもので、しかも中国全土を象徴する重要な器である。それらの鼎にある「司母」という二字は、息子である商王のみが母親に贈ることができる祭祀品であり、その「戊」と「辛」は、商王が母親たちに、死後に与える「廟号」(諡)である、という説は、今日まで正しいといわれてきた。 しかし「廟号」説をとる人たちは、一つの重要な要素を見落としている。それは当時の社会背景である。彼らは明らかに、中国古来の「男権至上」の視点で考えてきた。しかし郭沫若の研究によると、商代の社会は「女性孑遺(わずかに残る)」の時代、すなわち男権と女権が同様に重んじられた時代である。殷墟の婦好墓の考古学発掘は、その画期的な判断を実証した。
婦好は、商王武丁の妻の一人で、紀元前12世紀前半、祭祀や卜占をつかさどるとともに、軍を率いて周辺の他民族を討伐し、大いに功績をあげた、その業績は、甲骨の卜辞に記載されている。婦好の死を悲しんだ武丁は、現在の河南省安陽市小屯村に婦好の墓を造った。1976年、この墓はほぼ完全な形で発見され、大量の玉器や宝石などが出土したのである。 また商代は、神権と王権を同じように重んずる時代で、神権と軍権がともに女性の手に握られていたことも付け加えておかなくてはならない。考古学的には、今までのところ、商王が用いた鼎はまだ発見されていない。これは商代には、司母だけが神器である鼎を使う権力を持っていたことを説明している。それが周代になると、鼎は礼器となり、王がはじめて使えるようになった。こうしてはじめて「あまねく天の下、王土に非ざるは莫し」(『詩経』の「小雅・北山」)という状態になったのである。 商代の人々は女神を信仰していた。それは原始的な女性崇拝で、すなわち現代で広く認められている「薩満」(シャーマン)である。現存しているシャーマニズムでは、女性祭司は唯一な権威であり、鬼神に通じる巫女である。祭祀の際には歌いながら踊る。
商代では、シャーマンの占いによって吉凶を問い、国家の大事を決定した。実には、「薩満」の「薩」は、古代中国語「司」であり、「満」は古代中国語「媽」が転じたものである。青銅製の大鼎に鋳造された「司母」の文字は、古代の語音では「シャーマン」と読み、「祭祀の女神(母なる神)」あるいは「女性の祭司」を意味した。 他の民族では「シャーマン」には「狂い舞う者」という意味が込められているが、古代中国にはその意味はない。たぶんこの原始的な宗教行為は、中国から中央アジアの民族を含む他の民族に伝えられたのであろう。彼らは中国語の意味が分からないので、「シャーマン」を「狂い舞う者」と理解したのだろう。 「司母」すなわち「シャーマン」は、世界で唯一、中国語で名が付けられた原始宗教で、主に中国の北部と西北部で流行し、ずっと清朝の末まで信仰され、一定の権威性を持っていた。清朝が滅亡した後、南方から来た革命者たちは、これを「封建的迷信」と見なし、「シャーマン」は何度も一掃された。しかし今になっても、北部地区にわずかに存在している。 「司母」の銘文が鋳込まれた大鼎は、女性祭司が生前に使った用具であった。鼎の壁は、大部分が薄く鋳造されているが、外形からは重量感を感じさせる。それは、商代の鼎が神権の象徴であり、実際に使用される機能はなかったことを示している。
商代の鼎は、実際に使われた形跡がない。火にかけられたこともなければ、供え物を盛られたこともない。ある学者はこのことから、鼎は商王が母親のため鋳造した副葬品で、使用されずに埋葬された、と推断した。そこから引き出された「廟号」説も、張光直氏ら現代の学者が、後世の人が編纂した古い書籍をもとに推測したものに過ぎない。 「天干」は、商代では商王が死後に与えた「廟号」ではなく、商王の在世の名前である。例えば、商王「武丁」は、「武」が本名で、「丁」は何番目の子であるかを示す。また「天干」は、在世の司母の名にも用いられる。 商代の獣面紋は主に「司母」が使う重要な器を飾っている。甲骨文には「女己御獣」という表現があり、これは「司母己」が「天獣」に乗り、天に昇ることを意味し、「司母」と天獣の関係を示している。「司母」が「天獣」に乗るという形は、戦国時代(紀元前475〜同221年)の楚の屈原がうたった『九歌』の中の「山鬼」という詩に、ぼんやりとした影を見ることができる。「山鬼」は山中の怪物ではなく、妖しくなまめかしい女神で、人間の男性に恋をしたが、その意を遂げられなかった悲しみを歌っている。 「司母」がかぶっている青銅の兜にも、獣面が鋳造されているが、これは征戦と「天獣」「司母」との関係を示している。すなわち「司母」は天に替わって征戦するのである。
商の時代、「司母」は軍隊を統率する権力を持っていた。それは「司母」の名に、「天の兵」を意味する「天干」が用いられていることからわかる。婦好墓から出土した甲骨文には、はっきりとこのように記載されている。 婦好は、商王の命を奉じて、兵を募集し、数回征戦し、中原を平定した。また大軍を率いて、「巴」を征伐するため、殷(今の河南省安陽)から出発し、黄河を渡り、数千里を長駆、急襲し、長江・漢水流域を攻撃して、ついに巴人を打ち負かした。 これほどの長距離を長駆急襲するのは、兵の募集から兵站の補給まで、古代戦争史上の奇跡というべきだろう。 同様に、江西省新干県の大洋洲で発見された商代の墓の中から出土した青銅の甲冑は、その頭の大きさから、墓の主人は女性の総帥で、身長は155〜160センチだったに違いない、と推定される。文字資料が発見されていない「司母戊」も、婦好と同様に天下を征討した総帥に違いない。古代中国で、中原の政権と文字の文明が確立したのは、彼女たちの功績によるものだ。
周の武王が商の紂王を打ち破った牧野の戦いで、紂王が敗れたのは、彼に軍事的才能がまったくなかったからかもしれないが、本来ならば女性の総帥が軍を指揮すべき伝統があるにもかかわらず、原因はよくわからないが、女性の統帥が都にいなかった。その結果、軍が出陣する際、コントロールを失い、商王朝は滅亡した。 商代の鼎に鋳造された文字には、神権と兵権の二重の意味がある。「司母」は「女性祭司」であり、いわゆる「廟号」は「天干」の順によって統帥の位が受け継がれた順番であろう。『春秋左氏伝』の中に「国之大事、在祀与戎(国の大事は祭祀と軍事にあり)」とあるが、この名言の起源は、商代の鼎にはっきりと現れている。 周代になると、男権社会になり、当然のことながら女性の手中にあった一切の権力はきれいに一掃された。と同時に、さまざまな礼法が編まれ、婦女を束縛し、女性を男性に従属させた。 そして「天の兵」を意味していた「天干」は、死後に贈られる「廟号」に変わった。また、王の名前に「天干」が用いられることはなくなり、軍事ともまったく関係がなくなったと思われる。 |
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