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高考を受ける生徒 |
毎年6月は中国の全国大学統一入学試験「高考」が実施され、人々の話題の焦点となる。とくに国語試験の作文のテーマは最も注目を集め、試験直後に新聞に掲載されるたびに、人々の茶飲み話のタネになる。さらに多くの著名人や作家が同じテーマで作文を書き、ひとしきり大変な騒ぎが続く。
なぜこれほどまでに、作文のテーマが注目されるのだろうか。 その理由は、中国の科挙制度の伝統の話から始めなくてはならないだろう。中国は隋・唐代から始まった科挙試験によって人材を選抜してきた、千年余りの歴史を持つ。出自が貧しい庶民にとって、科挙に参加し、合格して進士になることは、官途に就き、運命を変えることのできる唯一の道であった。同じように、現代中国に生きる貧困家庭の青年が何もかもが不便な田舎から脱出し、いい仕事を見つけ、より高い理想を実現したいと思ったら、大学入試に合格するのが何よりの方法なのである。
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試験会場の外でやきもきして待つ親たち |
科挙の受験生は古典を詳しく解釈し、進言、献策する文章を書かなくてはならない。「高考」の受験生は、与えられたテーマについて作文を書かなくてはならず、その作文の点数はすべての試験問題において最大の割合を占めている。このような似通った要素のために、誰もが科挙を思い出し、それぞれの地区で、あるいはそれぞれの学校で「高考」のトップになった人は「状元(科挙の首席合格者)」と呼ばれる。このように、「高考」の作文が非常に注目を集めるのは、それだけの理由があるのだ。
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1983年高考作文のテーマ イラストに文章をつける。「ここには水がないから、他の場所を掘ろう」 |
1952年から今に至るまで、「高考」の作文のテーマはつねに時代の息吹を帯びていた。80年代以前のテーマは、『大躍進における感動的な一幕』(1985)、『この戦闘の一年における私』(1977)など、大部分が政治色の非常に強いものであった。80年代以降になるとがらりと変わり、ほとんどが社会の公共道徳や個人の生活といった方面のテーマとなった。例えば『習慣』(1988)、『脆弱に打ち勝つ』(1998)、『誠信』(2001)などである。しかし、近年少なからぬ専門家、学者はあらためて考え始めた。近頃の作文は政治色こそないものの、あきらかに道徳の傾向性を含んでいる。たとえば2002年の『心の選択』という課題。一人の登山者が暴風雪に遭い、すぐに下山しなければ生命が危機にさらされる。ところが、そこで彼は凍えている遭難者を発見する。その人を助けるか否か?『心の選択』というテーマではあるが、受験生にはほぼ「助ける」という選択しかない。そう書かなければ、採点する教師に道徳を評価してもらえないからだ。
学者たちは考える。「高考」は単なる普通の選抜試験に過ぎず、作文も受験生の国語能力を考察するに過ぎないのだから、そこに道徳を判断する責任を付け加えるべきではない。さもなければ受験生は心にもないことを書き連ねることを覚えるだけで、創造力を失ってしまう。『私の母』(1957)、『もしも記憶が移植できたら』(1999)、『忙しい』(2004・上海)、『人と道』(2006・江蘇)といったテーマこそ、ふさわしいテーマであろう。
今どきの若者はみな個性の追求、自由の追求を好む。いかにして彼らに「高考」の作文で、自分の考えと心の声をより自由に表現させることができるかということが、頭の痛い問題となっている。
2004年から、「高考」の作文試験は徐々に省別にテーマを定めるようになり、さらに2006年には、前代未聞の18のスタイルの異なるテーマが現れた。またこの年には、28の大学が独自に新入生募集(全新入生のうちの5%)を開始するなど、「全国統一試験」の概念は次第に薄れつつある。こうなるにいたってようやく、「高考」は社会の話題の焦点からフェードアウトし、受験生たちにより大きな自由を与え、文才あふれる、独特の思想に満ちた文章を書かせることができるようになるといえる。 |