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潭柘寺 |
北京には古刹が多い。手もとにある『北京名勝古跡辞典』をみただけでもざっと160ほど、実際にはこれを大きく上回るだろう。いちばん古いお寺は北京西郊外の潭柘寺で、1700年も昔の晋王朝(265〜420年)の時代に建立されている。
どうして、こんなに古いお寺が、こんなにたくさん、北京に生き続けてきたのだろうか。皇帝もふくめてこの土地の支配者に仏教信奉者が多かったのも、その一つの要因かもしれない。
中国の歴史上、もっとも激しかった仏教弾圧運動は、唐王朝の武宗が会昌五年(845年)におこなった「会昌廃仏」で、おびただしい数の寺院が壊され、僧侶が還俗させられた。だが、ときの北京地方の節度使(地方長官)は廃仏に反対し、体を張って寺院や僧侶を保護している。
そのことは、当時の中国に滞在し、「会昌廃仏」を目撃した日本の僧侶、円仁の『入唐求法巡礼記』に「鎮州・幽州・魏州・路州の四節度使だけが廃仏令に反対した」と記されている。ここでいう幽州は、北京一帯を指す。
前置きが長くなってしまったが、私なりの北京の古刹ベストスリーを、思いつくままに記してみよう。
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白塔寺 |
まず、北京を訪れた唐王朝の太宗・李世民が貞観19年(645年)に建立した法源寺。1910年代の北京に滞在していた中野江漢氏は、『北京繁盛記』(東方書店)で法源寺を訪れた当時、法源寺に行くのに西磚胡同、醋章胡同、爛縵胡同を通ったと書いている。
百年近くたったいまも、これらの胡同(横町)は健在、つまり法源寺はいまも胡同のなかの古刹である。1919年に、27歳の毛沢東がフィアンセの楊開慧と連れだって法源寺を訪れた記録が残っているが、きっとこうした胡同を縫って法源寺に入ったのだろう。
法源寺は、日本ともいささか縁がある。日本の国宝である唐招提寺の鑑真和上像が中国に里帰りしたとき(1980年)、しばらく法源寺に置かれ、中日友好の先人である和上の姿を一目でもと、北京市民が法源寺の前に長い列を作った。
一説によれば、若き日の鑑真和上は開元元年(713年)に、法源寺を訪れたという。ちょうど、鑑真が当時の仏教のしきたりで具足戒を受けたあとの諸国巡礼をしていた時期なので、まんざら伝説ともいえない。北京の地方史を研究する成善卿氏は、その著『老街漫歩・北京』でこの説をとっている。
次は冒頭でもふれた北京でもっとも歴史の長い潭柘寺。この山のなかの古寺も、日本と関係がある。この寺の塔林には、金、元、明、清の高僧の墓塔72基が、文字通り林のように立ち並んでいる。そのなかに、明王朝の宣徳四年(1429年)に北京で円寂した日本の高僧、無初徳始の墓塔があるのだ。無初徳始は「日本信州の人」という記録が残っている。
次は、ふたたび市内に戻って白塔寺と五塔寺のペア。この二つのお寺は、ともに「舶来品」である。白塔寺には、元王朝のフビライが至元八年(1271年)にネパールから工匠を招いて建てた、高さ51メートルのラマ風の白い塔がある。
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五塔寺 |
五塔寺には、明王朝の永楽帝が北京を訪れたインドの高僧から贈られたブッタガヤーの大精舎の石塔の設計図にもとづいて成化9年(1473年)に建てたインド風の五基の塔がある。
白塔寺には妙応寺という、五塔寺には真覚寺という立派な正称がある。だが、街の人たちは雨の日も、風の日も、灼熱の太陽の日も、いつも自分たちの傍らに立ち、自分たちをやさしく見守ってくれているお寺を、その姿から「白塔寺さん」「五塔寺さん」と親しく呼び、いつの間にか、正称の方は忘れ去られてしまっているのだ。
潭柘寺にも、嘉福寺、龍泉寺、大万寿寺といった立派な正称があった。だが、お寺のある潭柘山の村人たちから「潭柘寺さん」という愛称をもらい、いまではこの俗称が正称になっている。
北京に古刹が多いもう一つの理由は、ここにある。「白塔寺、五塔寺、潭柘寺……」といった庶民から贈られた愛称は、お寺と庶民の心の交わりを感じさせる。北京の古刹は、これからも庶民に愛され、親しまれて生き続けていくことだろう。