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孫子の銅像の前に立つ筆者 |
春秋の時代(紀元前770〜同476年)の偉大な思想家、「孫子の兵法」で知られる孫子(孫武)の第2の故郷は、江蘇省蘇州市呉中区である。私は23年にわたる軍隊生活を経て、現在、この蘇州で通信社の仕事をしている。
長い間、国防関係の教育・研究活動に従事してきたので、「兵法」には深い思い入れがあり、孫子とは切っても切れない縁で結ばれていると思っている。私の理想は、学者型の記者となることだ。すでに『穹窿山と孫子の兵法』などの著作を発表し、ウェブサイト「蘇州孫子兵法」を立ち上げた。
最初に日本に伝わった
中国で生まれた「孫子の兵法」が、最初に伝わった外国は日本である。そしてもっとも広範に深く影響を与えたのもまた日本であろう。
史書の記載によると、最初に『孫子』を日本に持ち帰ったのは、吉備真備(695?〜775年)である。彼は717年から735年まで留学生として唐で学び、帰国後再び遣唐使副使として3年間、唐に滞在した。吉備真備は日本で、「孫子の兵法」の研究と解釈を広めた最初の人である。
これを引き継いだのは、平安朝後期の文人官僚、大江匡房(1041〜1111年)である。彼は朝廷に秘蔵されていた『孫子』を整理し、「孫子の兵法」を日本で最初にまとめ上げた。
1068年、大江匡房を師と仰ぐ武将、源義家(1039〜1106年)は、熱心に「孫子の兵法」を学び、智謀に優れた名将となった。それ以来、「孫子の兵法」は、日本の武将たちの崇拝の的となった。
戦国時代の有名な武将、武田信玄は、とくに孫武を崇拝し、机の上にはいつも『孫子』が置かれていた。有名な武田の旗指物の「風林火山」は、『孫子』の「其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」という用兵の境地を象徴している。
『孫子』に見る平和への願い
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5月13日、蘇州で「孫子の兵法国際シンポジウム」が開かれた |
孫武は不戦の思想家であり、その思想は世界の平和を守るうえで大きな影響を与えている。『孫子』の『謀攻篇』には「百戦百勝は、善の善なるものに非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり」とある。
5月13日、蘇州市で「孫子兵法国際シンポジウム」が開催され、中国はもとより米国、日本、イラン、マレーシアなどから「孫子の兵法」の研究者百五十数人が集まった。
シンポジウムでは蘇州市孫武子研究会の黄俊度会長が「『孫子の兵法』が長い時間が経っても今日、なお新鮮さを保っているのは、孫子の思想に含まれている『不戦』と『全勝』の思想が、現代社会における世界各国の『平和』と『双贏』(ウィン・ウィン)の発展の要求に合致しているからである。2000年前の呉の国の人々は、『孫子の兵法』を運用して戦いに勝ったが、今日の蘇州の人々は、その思想を用いて社会経済と文化の発展の先頭に立っている」と述べた。
そして「孫子の兵法」のブームが世界的に広がる中で、「『孫子の兵法』の精髄を正確に適用し、広めることは、『調和のとれたアジア』『調和のとれた世界』の建設にとって役立つ」と述べた。
「古より、兵を知るは戦いを好むにあらず」という言葉は、平和を愛し、みだりに武力を用いることに反対し、21世紀の世界の安寧を渇望する中華民族の共通の願いを表しており、まさに『孫子』の思想の境地を反映している。
日本でも盛んな『孫子』研究
統計によると、日本で『孫子』を専門的に研究している人は数千人、アマチュアの愛好者は数十万人いるといわれ、すでに二百種以上の「孫子の兵法」の研究書が出版されているという。1960年代には、「孫子の兵法」は企業管理の分野に導入され、「最高の経営の教科書」と言われた。
1987年には、日本の著名な孫子研究家の服部千春氏の著した『孫子兵法校解』が中国で出版された。これは外国人が中国で出版した初の「孫子の兵法」の研究書である。
2003年12月、日本で、孫子国際研究センターが設立され、服部氏が理事長に就任した。2006年6月に杭州で開かれた第7回孫子兵法シンポジウムには、日本を含む二十数カ国・地区から300人以上が参加した。
今、蘇州の「孫武苑」には、『孫子の兵法13篇』を日本語で書いた石碑が建てられている。また孫子が庵を結んだ穹窿山には「中日友好桜花林」がある。ここを訪れて、孫氏に想いを馳せる日本の人々も数多い。「孫子の兵法」が、昔も今も、中国と日本を結ぶ絆となっているのである。