絵で生計を立てたい

深セン大芬美術産業協会の会長を務める呉瑞球さん

 呉瑞球さん(36歳)の名刺には、絵筆を握った手の図が印刷されている。深セン大芬美術産業協会の会長を務める呉さんは、「私は画家ですが、画商でもあります」と自らを紹介する。

 呉さんは広東省の農家出身。父親が早くに亡くなったうえ、兄弟が多かったため、15歳で学校をやめ、家計を手伝うようになった。

 14歳上の兄、呉瑞周さんは、故郷の美しい自然風景に魅せられたせいか、子どもの頃から絵を描くのが好きだった。川へ魚やエビを獲りに行くと、小枝で地面に魚やエビの絵を描く。一緒に行った仲間たちは感嘆の声をあげた。

複製画を制作する全国各地からやってきた画工たち

 そこで瑞周さんは、30キロ離れた県城(県政府がある町)まで歩いて行き、絵を学んだ。村のお年寄りからは二胡(胡弓)と笛を習った。しかし村人たちからは、仕事にも就かないでブラブラ遊んでいるやつと白い目で見られていた。

 呉さんも7、8歳の頃、瑞周さんからデッサンや線描、水彩画を習ったが、「絵を描いたってご飯は食べられない」と、生活のために建築現場で働いたり、アイスキャンデーや果物を売ったりした。売店を経営していたこともある。

 一方、絵をこよなく愛していた瑞周さんは、自分の特技をいかして家計を助けようと考えた。1970年代末には、お寺で仏像を描いたり、深センの路上で絵を描いて売ったりした。農家へ行って山水や牡丹、松の絵を描いたりしていたこともある。しかし当時の社会は、絵を描くことで報酬を受け取るのをよしとはしなかった。そこで、農家で食事と住まいの提供を受ける、流浪の画家となるしかなかった。

大芬村に残る客家の祠堂

 80年代、瑞周さんを取り巻く環境が変わった。絵を描いて報酬をもらうのは当たり前のことになったのだ。

 それから間もなくして、香港に隣接している深センには香港のバイヤーがよく油絵の買い付けにやってくるという話を聞き、これは貧乏から脱するよい手立てではないかと考えた。

 瑞周さんは学費を工面して深センに油絵を学びに行った。呉さんも兄の瑞周さんと一緒に行き、二人は絵の工場でアルバイトをしながら、絵を学んだ。

 呉さん兄弟は絵を学び、絵を売るなかで、深セン市の郊外にある大芬村という村には、香港のバイヤーたちが頻繁に買い付けにやってくる小さな画廊がたくさんあることを知った。そこでそこに活路を求めることに決めた。80年代末、大芬村には大勢の画商がやってきたが、二人もその一員となった。

油絵で発展した村

大芬村の様子

 大芬村は客家が集まって暮らす小さな村だ。80年代末までは、他の農村と何も変わらず、家は平屋建てでじめじめとし、道端の池にはアシが茂り、そこらじゅうでニワトリやアヒルが群れをなしていた。日が落ちると、犬の遠吠えがひっきりなしに聞こえる。村人たちは米や果物を栽培して暮らしていた。

 89年、香港の画商、黄江さんが十数人の作業員を連れて大芬村にやってきた。黄さんは民家を借りて、油絵の制作や買い付け、輸出を始めた。これが各地のバイヤーから注目を浴びるようになり、大芬村に画家や画工がどんどん集まりだした。油絵制作の作業場や個人のアトリエ、画廊、書画を扱う店が村中にでき始めた。

 これにともない、村人たちの生活は変わり、村の様相も変化した。

 平屋は二階建て以上の立派な建物に取って代わられた。しかし、村にある客家の祠堂はそのままの姿で残されている。村のお年寄りたちは今も祠堂に集まっておしゃべりを楽しむ。

 「田畑を耕して生きていく」という昔からの考え方は、社会環境が変化するなかで、次第に変わった。家の貸し賃が主な収入となり、油絵によって生活が豊かになった。

 今では、ほとんどの家にパソコンがある。ピアノを買った家さえもある。

 子どもに絵を学ばせている家庭も少なくない。村の幼稚園は油絵のクラスを開設。近くの小学校の児童たちはここ数年、毎年のように全国の書画展で入賞している。「こんなに身近に画家や画工が暮らしているのに、影響を受けずにいられますか?」とは村人たちの言葉だ。

額縁などの絵画関連製品を見に、大芬村へやってくる人も多い

 村には700軒以上の画廊があり、規模が大きなものは30余りある。全国各地からやってきた画家や画工は、4、5000人にのぼる。村では、額縁、カンバス、顔料など油絵に関するものなら何でも手に入る。大芬村は油絵に関する製品の集散地となった。

 大芬村で制作している油絵は、ほとんどが複製画だ。画工たちの流れ作業で制作される。一枚の名画を何人かの画工たちで分担し、それぞれがそのなかの一部を描く。こうすることで、技術が熟達し、すばやく本物そっくりに描けるようになるのだ。熟練工は、一日でゴッホの『ひまわり』を十枚ほど描くことができる。

 こういった低コストの油絵は、欧米の装飾品市場で強い競争力を持つ。米国市場で出回っている複製画の70%は中国からの輸入で、そのうち80%が大芬村で制作されたものだという。

 昔は、「文人は商いができず、役人は金の管理ができない」と言われていた。一般的に、芸術にたずさわる画家は、市場についてよく知らない。彼らの作品は美術館や競売を通して市場に入るからだ。しかしすべての画家の作品が、美術館や競売を通して市場に入るとは限らない。

海外のバイヤーと油絵の取引を成功させた呉瑞球さん(大芬油画村管理弁公室提供)

 大芬村はすべての画家、特に学校を卒業したばかりの若い画家に、作品を展示し、それを金銭に変える場を提供。このため、全国各地から美術学校の卒業生や美術愛好家が集まる。大芬村で絵を制作すると、市場の需要が分かり、芸術と市場を上手く組み合わせることができるようになるのだ。

 大芬村に多くの利益をもたらした複製画だが、そこには知的財産権の問題が存在する。そこで現地政府は管理事務所を設立。国家の関連の法律や規定に基づいて、この問題を適切に処理し、画廊が合法的に経営するよう指導している。

 十数年の発展を経て、大芬村の油絵は二種類に分けられるようになった。流れ作業で制作する複製画と画家がオリジナルで制作する作品だ。村には、自分の作品を創作する画家が200人近くいて、それを扱う画廊も百軒以上ある。

障害者の自立をサポート

 呉さん兄弟は、運命を変え、成功するという当初の目標を成し遂げた。今は、母親や家族を深センに呼び寄せ、暮らしている。そして成功した農民の例に違わず、故郷に立派な家を建てた。「母親のメンツを立てるためです。故郷の人たちに、呉家の息子は成功したということを示しているのです」と呉さんは説明する。

 呉さん兄弟は作業場を会社にした。毎月の売り上げは20、30万元に達する。絵画はコンテナ輸送により大量に欧米市場に運ばれる。

 呉さんは、大芬村の油絵のレベルを向上させ、村の一大産業にしたいと考えている。そこで、呉さんが会長を務める美術産業協会は、市場の開拓や画廊の経営、中国最大の総合見本市「中国輸出入商品交易会」への参加などを推進したり、創作の糧となるように、画家たちを黄山や徽州、杭州など風光明媚な地へ連れて行ったりしている。

大芬村に住む香港の画商、黄江さん

 「大芬村の油絵は、低レベルのままでとどまっていてはいけません。オリジナルを生み出す能力がなければ、今後の発展はないのです」と指摘する。

 兄の瑞周さんはここ数年、弟子や画工の育成に力を入れている。これまで育てた弟子のうち、200人以上が大芬村で画家として独立している。

 瑞周さんの弟子のほとんどは、貧しい家の出身だ。彼らは、向上心があり、意志が強く、聡明でよく学ぶ。

 呉さん兄弟の会社では、孤児や身体に障害を持つ若者なども受け入れ、育成している。「彼らを見ると、自分の辛かった日々を思い出します。だから、何とかして助けてあげたいのです」と呉さんは話す。

 呉さんによると、障害者たちは健常者よりも落ち着いていて、集中力があるため、絵画を学ぶのに適しているという。この方面の技能を習得すれば、健常者と同じように自分で働いて生きていくことができる。これは、呉さんにとっての社会貢献でもある。

 呉さん兄弟はさらに、大芬村に障害者を受け入れる「東方愛心芸術学校」を建設しようと計画している。彼らに無料で絵画制作を教え、彼らの自立をサポートしたいと考えているのだ。


参考データ
 

 ▽大芬村は深ロレ市竜崗区布吉街道の管轄下にある小さな村。面積は0.4平方キロ、もともとの人口は300人あまり。

 ▽大芬村は複製画やオリジナルの油絵の制作が主であるが、中国画、書、工芸、彫刻、額縁、顔料など付随産業も盛ん。同村を中心として、福建省、広東省、湖南省、江西省や香港、澳門特別行政区などに油絵産業圏が広がっている。大芬村の油絵は主に欧米やアフリカに輸出される。


大芬村には700軒以上の画廊がある

 
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