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青州旧市街(左)青州の旧市街には、いまなお往時の古い趣が漂っている。この辺りはほとんど元代に移住してきた回族(イスラム)の街である。現在、青州の人口は9万人だが、そのうち3万人は回族である。
駝山に向かう高齢ハイカー(右)青州周辺では、いまでも駝山石窟に向かう昔ながらの古道をたどる人々が多い(駝山は山の背が駱駝のこぶに似ているところから、この名がついている)。この光景は、唐代に聖地巡りをした巡礼者の群れを彷彿させる。
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青州は唐代、非常に大きな州の州都であり、その管轄規模は現在の山東省よりも大きかった。円仁がこの重要都市に到着したのは840年旧暦3月21日であった。
円仁と弟子たちは竜興寺に10日間滞在し、この間に通行許可証交付願いを提出した。続いて、この地域の軍政官でもある青州府長官に会見し、ほどなく五台山および首都長安への旅に必要な公式通行許可証を交付された。円仁は、「4月1日、午前の謁見時に公式通行許可証を受理。同時に長官より布三端と茶6斤を支給された」と記している。
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竜興寺大斉碑(左)573年建造の竜興寺大斉碑は、北斉時代から伝わる中国最大の石碑であるが、現在は青州偶園内にある。唐代、竜興寺には本山、塔頭合わせて数千人の僧が住んでいたといわれる。円仁は青州到着後、竜興寺新羅院に逗留した。
唐代のキササゲの樹(右)このキササゲの老樹は、840年旧暦4月1日、円仁が青州府長官に会い、長い間待ち望んでいた公式通行許可証を、ついに交付された場面を目撃していたであろう。円仁は、長官が「打毬場」に出かけたこと、「打毬」(ポロのような競技)に人気があったことなどを記している。
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ついに円仁は公式文書を入手し、これによって高僧の資格で各地を歩けることとなった。一行は入唐以来1年半を費やして、ようやく真の巡礼行に踏み出すことができたのである。
青州博物館はかつての竜興寺跡地に建っていて、学芸員たちは所蔵の仏教宝物について誇らしげに語ってくれる。私はここを数回訪れたが、その度に温かく迎えられ、館内での写真撮影も許可された。副館長の孫氏は、破壊された仏像が多数発見された場所へ、興奮した面持ちで案内してくれた。それは隣接する小学校の校庭の中だった。孫氏の話によると、発掘されたとき仏像たちはすべてきちんと並べて置かれていたという。
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