【慈覚大師円仁の足跡を尋ねて】 24回フォトエッセイF
阿南・ヴァージニア・史代=文・写真 小池 晴子=訳

青州府で歓迎される

     
 

青州旧市街左)青州の旧市街には、いまなお往時の古い趣が漂っている。この辺りはほとんど元代に移住してきた回族(イスラム)の街である。現在、青州の人口は9万人だが、そのうち3万人は回族である。
駝山に向かう高齢ハイカー(右)青州周辺では、いまでも駝山石窟に向かう昔ながらの古道をたどる人々が多い(駝山は山の背が駱駝のこぶに似ているところから、この名がついている)。この光景は、唐代に聖地巡りをした巡礼者の群れを彷彿させる。


 青州は唐代、非常に大きな州の州都であり、その管轄規模は現在の山東省よりも大きかった。円仁がこの重要都市に到着したのは840年旧暦3月21日であった。

 円仁と弟子たちは竜興寺に10日間滞在し、この間に通行許可証交付願いを提出した。続いて、この地域の軍政官でもある青州府長官に会見し、ほどなく五台山および首都長安への旅に必要な公式通行許可証を交付された。円仁は、「4月1日、午前の謁見時に公式通行許可証を受理。同時に長官より布三端と茶6斤を支給された」と記している。

竜興寺大斉碑左)573年建造の竜興寺大斉碑は、北斉時代から伝わる中国最大の石碑であるが、現在は青州偶園内にある。唐代、竜興寺には本山、塔頭合わせて数千人の僧が住んでいたといわれる。円仁は青州到着後、竜興寺新羅院に逗留した。
唐代のキササゲの樹(右)このキササゲの老樹は、840年旧暦4月1日、円仁が青州府長官に会い、長い間待ち望んでいた公式通行許可証を、ついに交付された場面を目撃していたであろう。円仁は、長官が「打毬場」に出かけたこと、「打毬」(ポロのような競技)に人気があったことなどを記している。

 ついに円仁は公式文書を入手し、これによって高僧の資格で各地を歩けることとなった。一行は入唐以来1年半を費やして、ようやく真の巡礼行に踏み出すことができたのである。

 青州博物館はかつての竜興寺跡地に建っていて、学芸員たちは所蔵の仏教宝物について誇らしげに語ってくれる。私はここを数回訪れたが、その度に温かく迎えられ、館内での写真撮影も許可された。副館長の孫氏は、破壊された仏像が多数発見された場所へ、興奮した面持ちで案内してくれた。それは隣接する小学校の校庭の中だった。孫氏の話によると、発掘されたとき仏像たちはすべてきちんと並べて置かれていたという。


青州博物館の菩薩立像左)青州博物館は、再び日の目を見た仏像の修復と展示を目的として建てられた。破壊された仏像は、おそらく宋代に入って寺院が再建された際に埋められたものと、研究者たちは考えている。この菩薩像も東魏時代の制作である。
青州博物館の仏陀立像青州到着後5年足らずのうちに、仏教弾圧の勅令によって竜興寺の美しい仏像は破壊され、僧侶たちは還俗させられ、経典が焚書に処せられようとは、円仁には想像もできなかっただろう。1996年10月、小学校の校庭の下に、多数のみごとな仏像が埋められているのが発見された。仏像の彩色はいまなお鮮やかであった。写真の仏像は東魏時代(534〜550年)のものである。
唐代の駝山石窟仏像(右)駝山にはいまでも唐代の石窟が数多く残っている。ここに漂う聖なる香気と仏教芸術の精華を、円仁もまた旅の途中で味わったことであろう。
慈覚大師円仁
 円仁は、838年から847年までの9年間にわたる中国での旅を、『入唐求法巡礼行記』に著した。これは全4巻、漢字7万字からなる世界的名紀行文である。仏教教義を求めて巡礼する日々の詳細を綴った記録は、同時に唐代の生活と文化、とりわけ一般庶民の状況を広く展望している。さらに842年から845年にかけて中国で起きた仏教弾圧の悲劇を目撃している。

 円仁は794年栃木県壬生に生まれ、44歳で中国に渡った。中国では一日平均40キロを踏破し、現在の江蘇、山東、河北、山西、陝西、安徽各省を経巡った。大師について学び、その知識を日本に持ち帰ろうと決意。文化の境界を超えて、あらゆる階層の人々と親しく交わり、人々もまた円仁の学識と誠実さを敬った。

 私たちはその著作を通して、日本仏教界に偉大な影響を与えた人物の不屈の精神に迫ることができる。彼は後に天台宗延暦寺の第三代座主となり、その死後、「慈覚大師」の諡号を授けられた

     


阿南・ヴァージニア・史代

  米国に生まれ、日本国籍取得。10年にわたって円仁の足跡を追跡調査、今日の中国において発見したものを写真に収録した。これらの経験を著書『「円仁日記」再探、唐代の足跡を辿る』(中国国際出版社、2007年)にまとめた。

 

 
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