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中国の読者にサインする筆者(写真・李建華) |
私が子どもの頃からずっと支えにしてきた言葉があります。それは中国語の没法子(しかたない)です。私はこの言葉をことある度につぶやいて救われ、育ってきました。あの忌まわしい時代に中国で暮らした方には、分っていただけるかと思います。
メイファーズは拙著『約束の夏』に描いたように家族の合言葉です。困った時に口をついて出て、楽天的になって、未来への希望をそこに持って、私は生き抜いてきました。
60年前、旧満州(現中国東北部)のハルビンで私の一家は暮らしていました。1945年、父が招集された後、母は8歳の私を頭に、6歳、4歳、1歳の4人の子を連れて、ソ連が旧満州に進攻してきた直後の8月11日、ソ連機の空爆の中を汽車でハルビンを発ちました。
やっと辿り着いた奉天(現瀋陽市)で日本は敗戦国となりました。中国国内は毛沢東率いる共産党八路軍と蒋介石の国民党政府軍の内戦が始まりました。
難民となった私たちは着の身着のままの状態で安東(現丹東市)へ移りました。安東はちょうど八路軍が勝って街が落ち着いた感じでした。
難民の日本人は、難民収容所へ行かねばならないようでしたが、母はそのことを知らずに、安東在住の父の妹一家を訪ねました。
訪ねたその家は八路軍に接収されて八路軍の軍人のご一家が入居していました。
4人もの子どもを連れて戸惑う母に、その方々は「どうぞお入りください」と丁重に招き入れてくださったのです。2階には叔母一家五人がおりました。こうして私たちはその家にかくまわれて、引き揚げまでの一年近くお世話になったのでした。
この方々は大変やさしく、気を配って助けてくれました。このご一家にめぐり会わなかったら、私たち一家は死ぬか、一家離散するか、どちらかだったことでしょう。近所の中国人の八百屋さんご一家もこまごまと気をつけてくださって、助けてもらいました。
栄養失調でやせ細って死にそうな2歳の子を養子として引き取りたいという方が現れました。母はわが子が生き延びることを願って、そのご夫婦に一番小さい子を託す決心をしました。そのやさしいご夫婦は、「中国人の自分の子としてしっかり育てるから、将来どんなことがあっても息子を返してくれと親の名乗りを上げないでほしい」と母に頼み、ご夫婦と母は固い約束をかわしました。
日本人の引き揚げが始まり、私たちは1946年の8月、300人の集団で安東を発ち、奉天まで汽車がないので2週間歩きました。途中、ほとんど食料がなく、お年寄りと3歳未満の子たちが次々倒れてゆきました。この途次、中国人の農民の方々に随分食べ物をいただき、助けてもらいました。こうしてなんとか命をつないで奉天に辿り着いたのは、百五十数人でした。母は「あの子をお願いして本当によかった。連れてきたら命はなかったよ。あのご夫婦は神様のおつかいかもしれない。このご恩を、あなたも一生忘れないでね」と私に言いました。
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北京での出版記念会で皆と歌を歌う筆者(右から3人目)(写真・李建華) |
引き揚げ港の胡蘆島へ命がけで辿り着くまでに、何回メイファーズと言ったことか。日本に上陸してからも、そしてその後もあちこち移りながら、メイファーズと家族で言い合って気持を支えあいました。私たちにとって、おまじないのような力を持った合言葉です。それは今では私の愛する言葉なのです。
日本軍は中国では残虐の限りを尽くして人も土地も踏みにじり侵略したのに、中国人は日本人難民を助け、日本人孤児をわが子として育ててくれました。広大な大地に勝る大きな中国の人たちに、母も私も限りない感謝の念を抱いて、それからの人生を生きてきました。
母は約束を守り通してきましたが、ある時、幼い子の泣き声を耳にして、突然精神のバランスを崩しました。それからは子どもの泣き声でたびたび混乱するようになり、そこからなんとか立ち直ったのは、ある夢を見た85歳を過ぎてからでした。母が元気のない時、私はよく言いました。「お母さん、メイファーズだよ」と。母は苦笑しながらも「そうだね、メイファーズ」と答えてくれました。
私が戦後初めて中国へ旅することにしたとき、母は「約束したのだから、あの子を捜さないでね」ときつく言いました。
私は母が交わした約束を守ることを母に誓いました。母と私の約束です。
母は亡くなる前に、私のすぐ下の弟にふっと言ったそうです。「一生悔やんでも悔やみ切れないのは、2歳だったあの子を中国においてきたことだよ。戦争しなかったら、こんなことにはならなかった」
母のこの思いは、戦火をくぐった世界中の母親たちの思いでありましょう。
私は自分の体験をいつかは書き残そうと若い時からずっと考えてきました。
弟の存在証明のために、母への感謝、人間としての素朴な愛で敵国日本人の命を救ってくれた多くの中国の人々への感謝を込めて後世に真実を伝えるために。
私はこの思いを、8歳の少女の目で書こうと決めました。子育てを終え、姑を見送った50代になってやっと時間もできて、自分の体験に史実的な裏づけをする資料を探して読みながら、小さな同人誌にこつこつと書いてきました。それを知って励ましてくれた人たちに支えられました。10年かかって自伝的小説『約束の夏』を書き上げることができました。
このたび中国と日本の多くの方々のご支援で、中国語訳で『夏天的諾言』(訳者は李建華氏と呂冰氏)として、北京の当代世界出版社から出していただけて、本当にうれしく思っています。そして平和のために、中国と日本の若い人たちに読んでほしいと切望します。
この本が、2つの国の人と人とを友達として結ぶお役に立てることを心から願っています。
2005年の夏に亡くなった母も、そう願っていることでしょう。
かつて母が「北京の青い空を見たかった。とてもきれいな空だそうだよ」と言ったことがありました。その北京に私は来ることができて、感謝しています。
これからの中国と日本が、明るく強い友情で結ばれて行きますように。