インタビュー
言葉、歴史、そして人生
    ――劉徳有・元文化部副部長に聞く

聞き手 王衆一『人民中国』総編集長  とき  2007年4月22日  ところ 劉徳有氏の自宅

劉徳有氏、1931年7月2日中国大連生まれ。中国文化部(省)元副部長(次官)。第7、8期全国人民政治協商会議委員。現職は中国対外文化交流協会常務副会長、中華日本学会名誉会長、中日関係史学会名誉会長、郭沫若研究会名誉会長、漢俳学会会長、中日詩歌比較研究会会長、北京大学客員教授、北京外国語大学名授など。
 ――今年は中日国交正常化35周年。この35年の中国と日本の関係は、まさしく山あり谷ありでした。その歴史を振り返って見ますと、とくに言葉とコミュニケーションの大切さと、微妙な違いからくる難しさを感じます。

 その意味で、中日国交正常化前史の時代から、完璧な日本語で、中日両国の交流に励んでこられた劉先生、そして今日も日本語について、あるいは中日文化交流について独特なお考えから、その研究もなさっておられる劉先生のご意見は、これからの中日関係に非常に貴重な証言とアドバイスになると思います。


 劉徳有氏(以下劉と略す) 「完璧な日本語」というのは恐れ入ります。

 ――まず、日本語とのご縁について教えていただけますか。

劉徳有氏の近著
  ええ、これは最近、日本僑報社から出していただいた『わが人生の日本語』という本に、かなりのスペースを割いて紹介しています。簡単に言いますと、私は1931年、中国で言う「九・一八事件(日本のいわゆる『満州事変』)」の直前に、当時すでに日本の植民地になっていた大連で生まれました。権力もなく、金銭的に余裕があるわけでもない両親が、偶然のチャンスに4歳半の私を、日本人が経営する幼稚園に入れたのです。幼稚園で2年過ごした後、やはり日本人の経営する「大連霞小学校」で6年間勉強し、卒業してから「大連中学校」に入学しました。

 ところがちょうど2年生のときに日本が戦争に負けて、学校も閉鎖されました。正直言って、4歳半から中学2年生までの間の日本語の勉強は、自ら進んで選んだというよりも、その時代に、植民地・大連に生まれたので、やむなく勉強させられたのです。

人民中国雑誌社にて。左が劉徳有氏
 ――先生は回想録に、その時点から、たぶん日本語とはもう縁がない、日本語は2度と使わないだろう、と当時の心境を書いていますが、新中国が成立した後、再び日本語を使い始めたきっかけは何でしたか。

  日本が戦争に負けたとき、私は14歳でした。まだ子どもでしたから、社会のことはよく知りませんでした。まわりの市民から聞いたのは、日本という国が滅びた、アメリカに占領されたという程度のことでした。私自身も、食糧配給制度のもとで、のどを通りにくいどんぐり粉を食べて暮らすようなことはもはや二度とないぐらいの認識しかありませんでした。

日本の友人、亀井勝一郎氏(左から2人目)とともに。中国の作家劉白羽氏(左端)、詩人の林林氏(右から2人目)と劉徳有氏(後列)
 日本が負けたと聞いて、当時、ほかの中国人と同じように解放感を覚えました。まあ、日本が戦争に負けたとはいえ、ソ連軍が進駐するまでは、日本軍は武装解除していませんでした。だから誰もがそうした喜びを、顔には出さなかったのです。でも、これからはもう絶対に日本語はしゃべらない、いや、しゃべってやるものか、という狭い考えでしたね。

 1949年に新中国が成立するまでの4年間、ずっと大連で生活しました。新中国と日本の民間交流は、正確に言えば1952年からです。1953年に日本語の月刊誌『人民中国』が創刊され、それまで日本人居留民のために開設した大連市日僑学校で中国語を教えていた私は、『人民中国』誌の責任者、康大川氏に選ばれ、北京での仕事を始めたのです。やっぱりこれからは友好交流のために日本語を使うのだと、つくづく感じましたよね。

 ――本格的に翻訳を始めたのは『人民中国』に入ってからですか。どんな人と出会いましたか。

 劉 当時『人民中国』編集部は、北京・西単の国会街にあった新華社総社の庭の一角にあり、3階建てのビルの中にありました。池田亮一、菅沼不二男、林弘、戎家実、松尾藤雄、岡田章ら日本人スタッフといっしょに仕事をしていました。

取材中の劉徳有新華社東京支局長
 当時、日本語版で使う原稿は、同じ『人民中国』の英語版からそのまま選んで使っていましたので、中国語の決定稿は、英米人スタッフが英語でリライトした文章をベースに再翻訳したもので、バタ臭い文句が多く、そういう中国語から翻訳した日本語の文章を菅沼不二男さんに渡しますと、翻訳調の私の拙文にとうとう我慢しきれなくなって、菅沼さんは直接、英語版を参考にして、丁寧に修正を入れてくださいました。直された訳文が真っ赤になったものです。例えば中国語の「在朝鮮停火」を、私は原文にこだわりすぎて「朝鮮における射撃を停止して…」と訳しましたが、菅沼さんは原文を理解したうえで「朝鮮で停戦を実現して…」と直してくれたのを今でも覚えています。 

 逆に、日本語の文章を中国語に訳す場合も、日本語の原文の意味を尊重しながら、しかも中国語らしく表現するノウハウを研究しました。というのは、日本語には漢字がたくさん使われているため、漢字にとらわれて、日本的な中国語になりがちです。

 ――そういえば、言葉の落とし穴というか、漢字にとらわれて誤訳したトラブルはけっこうありましたよね。翻訳というのは、やっぱり両方の表現をうまく置き換えるもうひとつの能力を必要としますね。文学作品の翻訳はやっぱりこういった能力の養成に役立ったでしょうか。

中曽根康弘氏(左)と歓談中の駐日記者の劉徳有氏
  そうですね。1960年代から1980年代にかけて、有吉佐和子の『祈祷』、大江健三郎の『不意の唖』、尾崎一雄の『虫のいろいろ』、芥川龍之介の『芋粥』、野間宏の『残像』などの短編小説を翻訳しました。例えば野間宏の『残像』を翻訳するとき、タイトルをどう訳すかでずいぶん迷いました。一番適当な訳は「残像」そのままだと思いましたが、当時の中国語の辞書にはまだその訳語は載っていませんでした。いろいろ考えた揚げ句、やっぱり『残像』に決めたわけです。2002年に出版された『日漢大辞典』にようやく「残像」という訳語がでていて、とてもうれしくなりました。

 ――言葉はやはり変化しています。文化交流というのは、言葉の次元で互いに浸透しあうものとも言われています。劉先生はいつも生きている、変化している言葉に関心を持っておられますが……

天安門楼上で、元首相の片山哲氏(左)と会見する毛主席。中央は劉徳有氏
  言葉は絶えず変化しているものですから、それをずっと見つめてこそ、時代に追いついていけると思います。1964年の秋から1978年6月にかけて、私は15年間も記者として東京に駐在しました。ちょうどその間、日本は大きな変化をとげていた時期で、日本語にたくさんの新しい表現が出て、新語、流行語、風俗語、氾濫する外来語、こういったものにはずいぶん悩まされました。でも、そのうちにそれを覚え、習慣のように身につけたのです。それは後日、『日本語の面白さ 中国人が語る〈日語趣談〉』という本にまとめました。

 いまも新しい言葉が出たら、中国語にどう訳すかを調べるのが楽しみです。例えば「クールビズ」はもう中国語訳が出ましたよ。なんと「(クービージュワン)酷ビー装」になっております。「クールビズ」という発音に当てて「(クービー)酷ビー」とし、それに服の意味の「装」からなっています。中国語によく見かける外来語の構造です。しかも「酷ビー」そのものの字面の意味は「チョウ(超)クール」という風に読めますので、漢字で外来語を表記する中国語の包容性は本当にすごいものですね。

1959年10月、北京から密雲ダムへ向かう車中にて会談する周恩来総理(左)と松村謙三氏。右は通訳する劉徳有氏
 ――同じ漢字を使う中国語と日本語のコミュニケーションに長年、従事してこられた劉先生にとって、難しいことや困ったこともあったのでは……

  もちろんありました。こういうエピソードがあります。1963年の夏、外文出版社代表団に随行して訪日した際、愛読者の懇談会に一人の中年の方が立って、「私はチュウショウ画家です。生活は大変困っていますが、中国のチュウショウ画家はどうですか」と聞かれました。質問者の身なりから、通訳の私は、当時、破産を余儀なくされた日本の苦しい中小企業者を連想し、「自信を持って」団長に「この人は中小画家で生活に困っています。中国の中小画家はどうなっているか、というのが彼の質問です」と訳しました。すると、私の通訳を聞いた団長は「中国には大画家、中画家、小画家の区分はありません。みな毛主席の教えに従って制作をしています」と答えました。

高山義三京都市長と語る郭沫若氏(中央)。左は通訳する劉徳有氏
 これを聞いて日本側の司会者があわててとんできて「さっきの質問のチュウショウは、アブストラクションの意味ですが」と訂正してくれました。なるほど、「抽象画家」か。「抽象画」は当時中国では全く見向きもされないものだったので、私の頭にその概念がなかったこともありますが、やっぱり違う漢字の日本語読みが全く同じというのも、ミスを招いた理由の一つでした。

 ――やっぱり通訳は、考える時間もあまりないので、翻訳よりもっと大変ですね。ほかに何か通訳についてのエピソードがありますか。

  毛主席の身辺で通訳したことは、なかなか忘れられませんね。正直言っていつも毛主席が現れると、本当にオーラを感じますから、胸がどきどき、わくわくして、とても緊張しました。1955年10月、日本の国会議員訪中団と会見した毛主席は、「よくいらっしゃいました。われわれは同じ人種です」と強い湖南訛りで話しますと、私は緊張のあまり「人種」(中国語は「種族」)を「民族」と訳してしまいました。同席していた周恩来総理はその場で「民族ではなく、人種です」と訂正してくれました。

遠山敦子文化庁長官(左)と懇談する文化部副部長劉徳有氏
 こうして1950年代半ばから1960年代の半ばにかけて、私は毛主席や周総理、劉少奇、陳毅、郭沫若らの指導者が日本の友人と会見する際、通訳を務めたことがたびたびあり、また、日本語のベテラン廖承志氏からの指導も受けました。この時期はとても忘れがたく、人生の最良のときでした。

 ――劉先生は国交正常化前史の多くの重要な瞬間の現場にいた人でもありますよね。言葉やコミュニケーションの壁を乗り越えて、中日両国民の相互理解を促進するために半世紀以上も頑張ってこられた劉先生が、国交正常化35周年を迎えた中国と日本に、何か伝えたいメッセージはありませんか。

  運命的にも、私の人生は中日友好とつながっており、日本語と切っても切れない関係にあります。ですから今回の回想録に『わが人生の日本語』というタイトルをつけたのです。

扇子の使い方について語る舞踊家の花柳千代さん
 私の古い友人、元文部科学省大臣、国立劇場理事長の遠山敦子氏は、私の本を読んで手紙をくださいました。「この書が単に劉先生の人生を語るだけでなく、日本と中国の交流再開に関する一級の証言でもあることに思い至りました」と評価していただきましたが、このほかに、裏千家の千玄室大宗匠からも推薦のお言葉を頂戴しました。

 ここで私が特に言いたいのは、相互理解の実現には、文化交流が不可欠であるということです。文化交流は、美意識の次元で互いの理解を促進できます。文化の次元では、完全な翻訳は不可能かもしれませんが、相手の美意識を理解したうえで置き換える方法を考えるのが翻訳の最高の境界ではないかと思います。中国語の俳句である「漢俳」の試みはその一環です。逆に、日本の「わび」「さび」といった美意識とよく似たものも漢詩の世界に見出せます。

 21世紀は次の世代が中日文化交流の担い手になりますが、若い世代に一言言いたいと思います。私の人生も立証しているように、いつの時代も人と人の交流、そして心と心の交流が一番大事だということです。

 ――お忙しい中を、大変ありがとうございました。

 
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