インタビュー |
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聞き手 王衆一『人民中国』総編集長 とき 2007年4月22日
ところ 劉徳有氏の自宅
その意味で、中日国交正常化前史の時代から、完璧な日本語で、中日両国の交流に励んでこられた劉先生、そして今日も日本語について、あるいは中日文化交流について独特なお考えから、その研究もなさっておられる劉先生のご意見は、これからの中日関係に非常に貴重な証言とアドバイスになると思います。 劉徳有氏(以下劉と略す) 「完璧な日本語」というのは恐れ入ります。 ――まず、日本語とのご縁について教えていただけますか。
ところがちょうど2年生のときに日本が戦争に負けて、学校も閉鎖されました。正直言って、4歳半から中学2年生までの間の日本語の勉強は、自ら進んで選んだというよりも、その時代に、植民地・大連に生まれたので、やむなく勉強させられたのです。
劉 日本が戦争に負けたとき、私は14歳でした。まだ子どもでしたから、社会のことはよく知りませんでした。まわりの市民から聞いたのは、日本という国が滅びた、アメリカに占領されたという程度のことでした。私自身も、食糧配給制度のもとで、のどを通りにくいどんぐり粉を食べて暮らすようなことはもはや二度とないぐらいの認識しかありませんでした。
1949年に新中国が成立するまでの4年間、ずっと大連で生活しました。新中国と日本の民間交流は、正確に言えば1952年からです。1953年に日本語の月刊誌『人民中国』が創刊され、それまで日本人居留民のために開設した大連市日僑学校で中国語を教えていた私は、『人民中国』誌の責任者、康大川氏に選ばれ、北京での仕事を始めたのです。やっぱりこれからは友好交流のために日本語を使うのだと、つくづく感じましたよね。 ――本格的に翻訳を始めたのは『人民中国』に入ってからですか。どんな人と出会いましたか。 劉 当時『人民中国』編集部は、北京・西単の国会街にあった新華社総社の庭の一角にあり、3階建てのビルの中にありました。池田亮一、菅沼不二男、林弘、戎家実、松尾藤雄、岡田章ら日本人スタッフといっしょに仕事をしていました。
逆に、日本語の文章を中国語に訳す場合も、日本語の原文の意味を尊重しながら、しかも中国語らしく表現するノウハウを研究しました。というのは、日本語には漢字がたくさん使われているため、漢字にとらわれて、日本的な中国語になりがちです。 ――そういえば、言葉の落とし穴というか、漢字にとらわれて誤訳したトラブルはけっこうありましたよね。翻訳というのは、やっぱり両方の表現をうまく置き換えるもうひとつの能力を必要としますね。文学作品の翻訳はやっぱりこういった能力の養成に役立ったでしょうか。
――言葉はやはり変化しています。文化交流というのは、言葉の次元で互いに浸透しあうものとも言われています。劉先生はいつも生きている、変化している言葉に関心を持っておられますが……
いまも新しい言葉が出たら、中国語にどう訳すかを調べるのが楽しみです。例えば「クールビズ」はもう中国語訳が出ましたよ。なんと「(クービージュワン)酷ビー装」になっております。「クールビズ」という発音に当てて「(クービー)酷ビー」とし、それに服の意味の「装」からなっています。中国語によく見かける外来語の構造です。しかも「酷ビー」そのものの字面の意味は「チョウ(超)クール」という風に読めますので、漢字で外来語を表記する中国語の包容性は本当にすごいものですね。
劉 もちろんありました。こういうエピソードがあります。1963年の夏、外文出版社代表団に随行して訪日した際、愛読者の懇談会に一人の中年の方が立って、「私はチュウショウ画家です。生活は大変困っていますが、中国のチュウショウ画家はどうですか」と聞かれました。質問者の身なりから、通訳の私は、当時、破産を余儀なくされた日本の苦しい中小企業者を連想し、「自信を持って」団長に「この人は中小画家で生活に困っています。中国の中小画家はどうなっているか、というのが彼の質問です」と訳しました。すると、私の通訳を聞いた団長は「中国には大画家、中画家、小画家の区分はありません。みな毛主席の教えに従って制作をしています」と答えました。
――やっぱり通訳は、考える時間もあまりないので、翻訳よりもっと大変ですね。ほかに何か通訳についてのエピソードがありますか。 劉 毛主席の身辺で通訳したことは、なかなか忘れられませんね。正直言っていつも毛主席が現れると、本当にオーラを感じますから、胸がどきどき、わくわくして、とても緊張しました。1955年10月、日本の国会議員訪中団と会見した毛主席は、「よくいらっしゃいました。われわれは同じ人種です」と強い湖南訛りで話しますと、私は緊張のあまり「人種」(中国語は「種族」)を「民族」と訳してしまいました。同席していた周恩来総理はその場で「民族ではなく、人種です」と訂正してくれました。
――劉先生は国交正常化前史の多くの重要な瞬間の現場にいた人でもありますよね。言葉やコミュニケーションの壁を乗り越えて、中日両国民の相互理解を促進するために半世紀以上も頑張ってこられた劉先生が、国交正常化35周年を迎えた中国と日本に、何か伝えたいメッセージはありませんか。 劉 運命的にも、私の人生は中日友好とつながっており、日本語と切っても切れない関係にあります。ですから今回の回想録に『わが人生の日本語』というタイトルをつけたのです。
ここで私が特に言いたいのは、相互理解の実現には、文化交流が不可欠であるということです。文化交流は、美意識の次元で互いの理解を促進できます。文化の次元では、完全な翻訳は不可能かもしれませんが、相手の美意識を理解したうえで置き換える方法を考えるのが翻訳の最高の境界ではないかと思います。中国語の俳句である「漢俳」の試みはその一環です。逆に、日本の「わび」「さび」といった美意識とよく似たものも漢詩の世界に見出せます。 21世紀は次の世代が中日文化交流の担い手になりますが、若い世代に一言言いたいと思います。私の人生も立証しているように、いつの時代も人と人の交流、そして心と心の交流が一番大事だということです。 ――お忙しい中を、大変ありがとうございました。 |
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